Vol.23 ソフトボール留学:田河眞美さん
とわの森三愛高 → 山梨学院大 → サウスウエスタン・カレッジ
6歳からソフトボールを始め、小学2年生の冬からピッチャーを本格的に開始。小学校4年生からエースとして全国大会へ出場。中学校2.3年生ともに全国大会出場、とわの森三愛高校時代には3年連続全国大会、中高ともに6年間国体へ出場。高校2年生の冬にはニュージランドへ3ヶ月ソフトボール留学を経験し、大学4年までの16年間に渡りソフトボールに励んだ。その後、2年間社会人経験を経て、2016年6月に渡米し語学とソフトボールを学んでいる。現在は、Southwestern Collegeの女子ソフトボール部で学生アシスタントコーチとして従事している。北海道札幌市白石区出身。
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幼い頃、偶然にも始めたソフトボール。その時から田河眞美さんの真ん中には、いつもソフトボールがありました。一度は離れてしまっても、たとえ遠ざけてしまっても、戻るところはあの日から変わらずただ一つ…。ソフトボールを愛し、ソフトボールと共に生きる、貴重なお話をお聞きしました。
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もしあの日、幼い私が道に迷わなかったら…
ソフトボールを始めたきっかけは、4つ上の姉の影響だったのですが、私が始めるまでには少し経緯があります。姉がソフトボールを始めた頃から、両親は共働き、姉は練習で、家に一人で留守番をすることが多くなりました。小学校1年生になったある日、学校の友達の家に行こうとした私は、道に迷ってしまって…。ソフトボールチームの監督がそれを知って「これからは危ないから一緒に練習しよう」と言ってくれたのです。これがソフトボールを始めたきっかけとなりました。
華やかさと影の間で探し出した分岐点
小学校時代、ソフトボール選手として成長した私は、中学校は校区外のソフトボールが強い学校に通っていました。両親、叔母、チームの監督が送り迎えしてくれたことは、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。そして、進学したとわの森三愛高校は、当時、第2希望の学校でした。でも、日本代表チームの監督もされていましたし、こうして先生方が素晴らしいことは知っていました。また、とわの森三愛高校のOGで、ニュージーランド留学をした先輩がいたこともあり、自分にも「留学」が選択肢の1つとなったのです。とわの森三愛高校へ行ったことが今の私に繋がっていて、これも何かの縁のような気がします。
高校では、3年連続全国大会出場。そして、高2の3学期にニュージーランドへソフトボール留学をしました。ソフトボール選手としては輝かしい経歴に見えるかもしれませんが、高校時代の私は、スランプの闇から抜け出せず……。そんな様子を心配して、先生は「やりたいことがあるなら何でもサポートする」と言ってくださいました。とにかくネガティブな気持ちしか持てない自分を変えたい。そのためには、海外に行きたいと思ったのです。まさか留学をしたいと言い出すなんて、先生には意外だったようですが、すぐに手続きを進めてくださいました。
少し時間が戻りますが、小学校時代、毎年、三重県の熊野で行われるキャンプに参加していました。そこにニュージーランドからコーチが来ており、留学の際にも一緒にニュージーランドへ渡りました。この留学は、私にとって大きな分岐点。ホストファミリーの家で家事を手伝いながらソフトボールをする日々の中で、自分を見つめ直し、考えるきっかけとなったのです。
思い悩んだ気持ちを糧に新たな道を
大学は、地元を離れ山梨学院大学へ。1年生時は顔面にボールが当たり、シーズンを棒に振りました。納得できるよい成績が残せないまま、迎えた最終学年。後にも先にも大学は残り1年、台湾遠征をはじめ、気合いを入れて頑張ろうと考えていました。しかし、そんな矢先「コーチをしてみないか」という話が出たのです。「選手として全うしたい」「両親に恩返しがしたい」という思いから、本当に悩んだのですが、求められているのなら受けることも大切だと考え、コーチになることを決意。それからは、コーチとしてチームのピッチャー全員を担当して見ていました。コーチになったことで、必要なのは選手だけではないということを思い知らされましたし、社会人への準備ができました。
実は、選手を退きコーチになった後、ある意味ほっとしたことを覚えています。「選手としてまっとうしたかった」という気持ちから、「選手としてやらなくてもよくなった」という気持ちに変わっていたのでしょう。とは言え、本当は重圧なんてなかったのです。自分が自分にプレッシャーをかけていたのだと思います。
幼い頃からソフトボール選手として、ずっと褒められて育ってきました。そんな私は、初めての挫折から上手く立ち直れず、長く尾を引いてしまったのです。高校と大学は、正直なところ、不完全燃焼。自分のやりたいと思うソフトボールができませんでした。でも、こうして思い悩んだこと、立ち止まって考えたこと、それがすべてマイナスだったとは思いません。今につながっていることは多いはずです。
拓き始めたアメリカで進む道
渡米して1か月後、オクラホマでソフトボールのワールドカップが開催されました。そこに、日本代表チームに帯同してとわの森三愛高校の監督が来ることになったのです。監督のおかげで、カリフォルニアでソフトボールの会社を運営している日本人女性を紹介してもらえることになりました。コンタクトをとると、ちょうどニューヨークに来るとのこと。アメリカでのソフトボールの道が拓き始めた瞬間でした。急遽ニューヨークからサンディエゴに拠点を移し、Southwestern Collegeへ入学。そちらのソフトボール部でコーチを務め、アメリカのソフトボールに携わることができています。
日本とアメリカの違い、その根底にあるのは?
あくまでの個人的な意見ですが、高校・大学レベルで比較した場合、レベルはアメリカのほうが少し上だと感じますが、一人ひとりのスキルは日本人のほうが高く、日米それぞれに秀でた部分があると感じています。身体能力や精神的な面でいえばモチベーションは、アメリカの選手のほうが持っているかな、と。アメリカの選手は、切り替えが上手です。普段はやる気あるのかどうかわからないような選手が、試合になると計り知れない力を発揮する。日本人にはないハングリー精神ではないでしょうか。私もそうでしたが、日本人はちょっと過保護かな、と。たとえばアメリカとは、赤ちゃんの時からの育て方が違います。よちよち歩きの赤ちゃんがプールのそばを走っていても、お母さんはやめさせません。プールに落ちないか心配しながら見ていたのですが、案の定、落ちてしまったのですが、そこで初めてお母さんが助けに駆け寄るといった光景でした。また、アメリカの選手たちは、ライバルライバル、嫌なことは嫌。取り繕うことがなく、はっきりしていますね。
自分のしたいこと、目標や夢を正直に伝えてほしいと思います。誰かに伝えてもいいし、紙に書くのでもいいでしょう。大きなことから小さいことまで、口に出したり全部書き出したりする。そこで、重要度もわかります。私は、「アメリカのソフトボールを知りたい!」と言っていたら、それに関係する方々に出逢え、アドバイスをもらい、アメリカでソフトボールのアシスタントコーチをさせていただいています。もし、口に出すことが苦手な人は、日常的なことを伝えることから始めてもいいと思います。私は「サングラスがほしい」と思っていたら、そういうことも口に出して言っています。すると、誰かがフレンドリーに「サングラス、ほしいって言ってなかった?」と教えてくれる。このように、何かにつながっていくのです。
もう1つは、絶対にあきらめないでほしい。私自身あきらめなかったことで、一度離れたソフトボールにもう一度携わることができました。可能性は無数にあると思います。私の場合、もし、オーストラリアに行っていたとしたら、違う道を歩いていたかもしれません。そして、この道へ導いてくれた女性に出逢わなければ、今の私はいないでしょう。出会いは大切、一期一会です。今の環境は恵まれています。悩みといえば、幸せな悩みばかりです。
今後の身の振り方については、模索中です。年齢的なことを考えると、こうした留学のチャンスは最後でしょう。資格を取りたいと思っていますが、今の学校ではその資格のための勉強はできません。トランスファーするか、コーチをしながら学ぶかなど、いくつかある選択肢を考えて進む道をみつけたいと思います。まだまだ道の途中。でも、自分の中で確固たるものとしてあるのは、留学を考えているソフトボール選手の手助けをしたいということ。私もアメリカでソフトボールを携わっていることを糧に頑張ります!