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2017年9月 8日 (金)

Vol.23 ソフトボール留学:田河眞美さん

とわの森三愛高 → 山梨学院大 → サウスウエスタン・カレッジ

Img_5401_26歳からソフトボールを始め、小学2年生の冬からピッチャーを本格的に開始。小学校4年生からエースとして全国大会へ出場。中学校2.3年生ともに全国大会出場、とわの森三愛高校時代には3年連続全国大会、中高ともに6年間国体へ出場。高校2年生の冬にはニュージランドへ3ヶ月ソフトボール留学を経験し、大学4年までの16年間に渡りソフトボールに励んだ。その後、2年間社会人経験を経て、2016年6月に渡米し語学とソフトボールを学んでいる。現在は、Southwestern Collegeの女子ソフトボール部で学生アシスタントコーチとして従事している。北海道札幌市白石区出身。

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幼い頃、偶然にも始めたソフトボール。その時から田河眞美さんの真ん中には、いつもソフトボールがありました。一度は離れてしまっても、たとえ遠ざけてしまっても、戻るところはあの日から変わらずただ一つ…。ソフトボールを愛し、ソフトボールと共に生きる、貴重なお話をお聞きしました。
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もしあの日、幼い私が道に迷わなかったら…

ソフトボールを始めたきっかけは、4つ上の姉の影響だったのですが、私が始めるまでには少し経緯があります。姉がソフトボールを始めた頃から、両親は共働き、姉は練習で、家に一人で留守番をすることが多くなりました。小学校1年生になったある日、学校の友達の家に行こうとした私は、道に迷ってしまって…。ソフトボールチームの監督がそれを知って「これからは危ないから一緒に練習しよう」と言ってくれたのです。これがソフトボールを始めたきっかけとなりました。

華やかさと影の間で探し出した分岐点

Unnamed_2小学校時代、ソフトボール選手として成長した私は、中学校は校区外のソフトボールが強い学校に通っていました。両親、叔母、チームの監督が送り迎えしてくれたことは、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。そして、進学したとわの森三愛高校は、当時、第2希望の学校でした。でも、日本代表チームの監督もされていましたし、こうして先生方が素晴らしいことは知っていました。また、とわの森三愛高校のOGで、ニュージーランド留学をした先輩がいたこともあり、自分にも「留学」が選択肢の1つとなったのです。とわの森三愛高校へ行ったことが今の私に繋がっていて、これも何かの縁のような気がします。

高校では、3年連続全国大会出場。そして、高2の3学期にニュージーランドへソフトボール留学をしました。ソフトボール選手としては輝かしい経歴に見えるかもしれませんが、高校時代の私は、スランプの闇から抜け出せず……。そんな様子を心配して、先生は「やりたいことがあるなら何でもサポートする」と言ってくださいました。とにかくネガティブな気持ちしか持てない自分を変えたい。そのためには、海外に行きたいと思ったのです。まさか留学をしたいと言い出すなんて、先生には意外だったようですが、すぐに手続きを進めてくださいました。

少し時間が戻りますが、小学校時代、毎年、三重県の熊野で行われるキャンプに参加していました。そこにニュージーランドからコーチが来ており、留学の際にも一緒にニュージーランドへ渡りました。この留学は、私にとって大きな分岐点。ホストファミリーの家で家事を手伝いながらソフトボールをする日々の中で、自分を見つめ直し、考えるきっかけとなったのです。


思い悩んだ気持ちを糧に新たな道を

Unnamed_4大学は、地元を離れ山梨学院大学へ。1年生時は顔面にボールが当たり、シーズンを棒に振りました。納得できるよい成績が残せないまま、迎えた最終学年。後にも先にも大学は残り1年、台湾遠征をはじめ、気合いを入れて頑張ろうと考えていました。しかし、そんな矢先「コーチをしてみないか」という話が出たのです。「選手として全うしたい」「両親に恩返しがしたい」という思いから、本当に悩んだのですが、求められているのなら受けることも大切だと考え、コーチになることを決意。それからは、コーチとしてチームのピッチャー全員を担当して見ていました。コーチになったことで、必要なのは選手だけではないということを思い知らされましたし、社会人への準備ができました。

実は、選手を退きコーチになった後、ある意味ほっとしたことを覚えています。「選手としてまっとうしたかった」という気持ちから、「選手としてやらなくてもよくなった」という気持ちに変わっていたのでしょう。とは言え、本当は重圧なんてなかったのです。自分が自分にプレッシャーをかけていたのだと思います。

幼い頃からソフトボール選手として、ずっと褒められて育ってきました。そんな私は、初めての挫折から上手く立ち直れず、長く尾を引いてしまったのです。高校と大学は、正直なところ、不完全燃焼。自分のやりたいと思うソフトボールができませんでした。でも、こうして思い悩んだこと、立ち止まって考えたこと、それがすべてマイナスだったとは思いません。今につながっていることは多いはずです。

背中を押してくれた母の言葉
Unnamed_1大学卒業後には、とにかく海外に行きたいという気持ちが強くなっていました。しかし、監督から「留学には費用がかかる。大学を卒業してまで親に頼るな」と言われ、確かにそうだと納得しました。就職活動をして人材派遣会社に就職しました。主に外国人への仕事を斡旋している会社です。仕事を求めてやって来る外国人は、決して豊かな国の人たちばかりではありませんでした。日本で勉強をしながらアルバイトをして、その上、母国の家族へ仕送りしている人もいたのです。そんな彼らからは、刺激と勇気をもらいました。
こうした中、2020年の東京オリンピックで、ソフトボールが追加種目として復活することになりました。これを受けて私も「何か行動しなくては!」と思い立ったのです。母に相談したところ「何かしたいと思った時にやらなくては、永遠に後悔するよ」と言ってくれ、その言葉が背中を押してくれました。まずは、留学のために貯金から開始し、会社は2016年3月に退職。その年の6月に渡米しました。しかし、ソフトボールができるかどうかはわかりません。知り合いなんて誰もいないのですから…。そんな状況でしたが、とにかく行けばなんとかなるだろうと思っていました。


拓き始めたアメリカで進む道

渡米して1か月後、オクラホマでソフトボールのワールドカップが開催されました。そこに、日本代表チームに帯同してとわの森三愛高校の監督が来ることになったのです。監督のおかげで、カリフォルニアでソフトボールの会社を運営している日本人女性を紹介してもらえることになりました。コンタクトをとると、ちょうどニューヨークに来るとのこと。アメリカでのソフトボールの道が拓き始めた瞬間でした。急遽ニューヨークからサンディエゴに拠点を移し、Southwestern Collegeへ入学。そちらのソフトボール部でコーチを務め、アメリカのソフトボールに携わることができています。

日本とアメリカの違い、その根底にあるのは?

Unnamed_3あくまでの個人的な意見ですが、高校・大学レベルで比較した場合、レベルはアメリカのほうが少し上だと感じますが、一人ひとりのスキルは日本人のほうが高く、日米それぞれに秀でた部分があると感じています。身体能力や精神的な面でいえばモチベーションは、アメリカの選手のほうが持っているかな、と。アメリカの選手は、切り替えが上手です。普段はやる気あるのかどうかわからないような選手が、試合になると計り知れない力を発揮する。日本人にはないハングリー精神ではないでしょうか。私もそうでしたが、日本人はちょっと過保護かな、と。たとえばアメリカとは、赤ちゃんの時からの育て方が違います。よちよち歩きの赤ちゃんがプールのそばを走っていても、お母さんはやめさせません。プールに落ちないか心配しながら見ていたのですが、案の定、落ちてしまったのですが、そこで初めてお母さんが助けに駆け寄るといった光景でした。また、アメリカの選手たちは、ライバルライバル、嫌なことは嫌。取り繕うことがなく、はっきりしていますね。

日本でソフトボールに励む選手たちへ

Unnamed_3_2自分のしたいこと、目標や夢を正直に伝えてほしいと思います。誰かに伝えてもいいし、紙に書くのでもいいでしょう。大きなことから小さいことまで、口に出したり全部書き出したりする。そこで、重要度もわかります。私は、「アメリカのソフトボールを知りたい!」と言っていたら、それに関係する方々に出逢え、アドバイスをもらい、アメリカでソフトボールのアシスタントコーチをさせていただいています。もし、口に出すことが苦手な人は、日常的なことを伝えることから始めてもいいと思います。私は「サングラスがほしい」と思っていたら、そういうことも口に出して言っています。すると、誰かがフレンドリーに「サングラス、ほしいって言ってなかった?」と教えてくれる。このように、何かにつながっていくのです。

もう1つは、絶対にあきらめないでほしい。私自身あきらめなかったことで、一度離れたソフトボールにもう一度携わることができました。可能性は無数にあると思います。私の場合、もし、オーストラリアに行っていたとしたら、違う道を歩いていたかもしれません。そして、この道へ導いてくれた女性に出逢わなければ、今の私はいないでしょう。出会いは大切、一期一会です。今の環境は恵まれています。悩みといえば、幸せな悩みばかりです。

今後の身の振り方については、模索中です。年齢的なことを考えると、こうした留学のチャンスは最後でしょう。資格を取りたいと思っていますが、今の学校ではその資格のための勉強はできません。トランスファーするか、コーチをしながら学ぶかなど、いくつかある選択肢を考えて進む道をみつけたいと思います。まだまだ道の途中。でも、自分の中で確固たるものとしてあるのは、留学を考えているソフトボール選手の手助けをしたいということ。私もアメリカでソフトボールを携わっていることを糧に頑張ります!

【取材・文】金木有香

【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年8月 3日 (水)

Vol.20 ソフトボール留学:五十川智美さん

とわの森三愛高 → 早稲田大 → ニュージーランド・HVセインツ

P2歳からのスピードスケートを始め、小学生から中学生までスケート競技を9年間続け日本代表選手にも選出される。小学6年時には陸上大会(800m)、中学生からはソフトボールも同時にプレーし、名門・とわの森三愛高校では主将を務め国体3位/インハイ3位の輝かしい成績を残す。早大時代にもチームの中心選手として関東大会選手権2連覇、社会人チーム時代は国体3年連続出場を達成。ニュージーランド時代はリーグ戦で打率.450の高打率で見事MVPを獲得。現在は競技者としての挑戦を続ける一方で、スポーツと一生向き合っている環境作り、ジュニア育成に注力している。北海道十勝音更町出身。


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大学時代まで打ち込み続けたソフトボールを、就職を機に一度は離れようとした五十川さん。しかし、ソフトボールと自分は切り離せない、と夢を追いかけてニュージーランドへ渡りました。日本とニュージーランドを経験した五十川さんのソフトボール愛にあふれる貴重なお話をお聞きしました。
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切っても切れないソフトボールへの思い

全国1位を目指して、ソフトボールに全力を尽くした大学時代。結果は3位でした。それを受けて卒業後は「もう、ソフトボールから離れよう。ソフトボールのない生活をしよう」と心に決めました。東京から地元・北海道に戻り、病院に就職。しかし、一度はソフトボールから離れたものの、気づけば、誘っていただいたクラブチームでソフトボールをしていました。朝から晩まで仕事をした後や週末にするソフトボールは、何よりもの息抜き。やっぱり私の生活には、ソフトボールは欠かせないものでした。

私を変えてくれたソフトボール

1病院勤務の3年間、再び携わったソフトボールが私を変えてくれました。自分にできることは、選手としてだけではない。指導者としてもスポーツやソフトボールを通じて社会に貢献できるのではないか、と考えるようになったのです。そこで「できることはまだまだある。夢をあきらめるのは、まだ早い」と、私の挑戦心をかきたてたのが、ニュージーランドへの留学でした。

大学時代は海外へ行こうと思ったことはなかったので、まずは、情報収集から準備を始めました。そして、肝心の英語はというと……、かなり苦手。これまでスポーツに打ち込んできたため、しっかりと勉強をしたことがありませんでした。基礎からやり直しです。こうした期間を経て、ある程度渡航の準備が整ったとき、ようやく両親に話をしました。「ニュージーランドへ単身ソフトボール留学をするなんて」と最初は驚いていましたが、私が自分で決めたことは何を言っても止めることはできないと知っている父と母。「頑張っておいで」と送り出してくれました。


いざ!ニュージーランドへ

3ニュージーランドへは、ワーキングホリデーのビザを取得して渡航しました。第一印象は、スポーツや運動が好きな人が多い!ということでした。街中で走っている人、エクササイズをしている人がたくさんいて、テンションが上がりました。ただ、物価の高さが困りもの。コーラ1本500円という感覚にはまいりました。また、小腹が空いたときに「ちょっと食べたいな」と思っても、日本のおにぎりみたいな軽食がありません。食べるならしっかり食べるというメニューしかなかったのも、文化の違いを感じた点でした。しかし、ほとんど英語ができず「とりあえず行ってみよう!」という状態で渡航した私を支えてくれたのは、何よりもニュージーランドの人のやさしさでした。道を尋ねると、ただ説明をするだけでなく、現地まで一緒に行ってくれたり、銀行での手続きも親切に対応してくれたりしました。

ソフトボールにおける日本とニュージーランドの違い

海外でソフトボールをして感じたことは、日本は世界で最高レベルだということ。技術で日本に及ぶ国はないと自信を持つことができました。しかし、その技術に達してはいませんが、ニュージーランドのソフトボールパワーには衝撃を受けました。日本は技術を教えられてこそですが、ニュージーランドの若い世代は、その技術を教えてもらうこともないのに、必死でボールに食らいついたりヘッドスライディングをしたりしているのです。メンタルの強さと筋力の高さには脱帽でした。これに技術が加われば、大きく変わるのではないかと思います。


言葉の壁を乗り越えて

2こうしたニュージーランドのパワーに日々触れながら、1年間の生活を終えました。チームに日本人は私一人。ソフトボールをしているとき、日本語は一切使いませんでした。振り返ってみると、やはり、最初は言葉の壁が高かったなと思います。コーチやチームメイトの言葉をすべて理解することができなくて、申し訳ないという気持ちで一杯でした。言ってくれた言葉に対して、自分ももっと返すことできれば……ともどかしさがつのりました。半年ほどが過ぎ、言いたいことを頭で整理してから話すようにすると、徐々に馴染むことができました。コンプレックスを持っていた英語を、もっと勉強したいと思うようになったほどです。

ニュージーランドが教えてくれたこと

メンタルの面では、ニュージーランドの選手から多くのことを学びました。それは「すべてを楽しむ」ということ。たとえば、これまでの私の場合、試合で1打席目、2打席目がダメで、3打席目に打ったとしても、「1打席目から結果を出さなくてはいけなかった」と思っていました。さらに、チーム内にも「あそこで打っていたらこんな展開にはならなかったのに」という雰囲気が流れます。でも、ニュージーランドの選手は、それまでの結果や展開がどうであれ「打ったものは打ったからいいでしょ!成功は成功!」と言うのです。そして、チームメイトも一緒に喜ぶ。これこそが選手にとって必要なメンタルであり、チームのあるべき姿だと思いました。こうした気持ちや雰囲気が次の試合によいふうにつながっていく。私はこれを「ニュージーランドマインド」と呼んでいます!

これから海外を目指す皆さんへ

4最初は「行きたい!」という気持ちが前面に出て「楽しみ」が先行すると思います。それからさまざまなことを調べていくうちに、いつの間にか「不安8割、楽しみ2割」という気持ちになるのではないでしょうか。でも、実際に現地に行くと、また、数字が逆転します。不安を乗り越えて挑戦すれば、きっとうまくいくはず!留学を迷っているなら、ぜひ、実行にうつしてほしい。なぜなら、人生が変わるから。もちろん変えるのは自分なのですが、たくさんのきっかけをもらうことができる。人生の勉強だと思って、挑戦してください。

私自身は、ソフトボールや日本というくくりにとらわれるのではなく、スポーツ全体をグローバルな視点で見ていきたいと思っています。また、選手としてだけではなく、指導やコーチングも行っていくつもりです。今はソフトボール人口が減っているのが現状。しかし、高い位置にのぼれないのならやらないという思考ではなく、ソフトボールがしたいという気持ちを大切に、もっと広い視点で考えられるソフトボール界にしていきたいと考えています。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)