カテゴリー「スポーツマネジメント留学」の4件の記事

2016年4月27日 (水)

Vol.19 マネジメント留学:山根耕治さん

神港学園 → 大阪学院大 → ジョージブラウン・カレッジ大学院

12988159_10156753912475398_145315_2強豪・神港学園高校では2年生時に甲子園出場。卒業後、大阪学院大学へ進学するも、怪我のため野球を断念。在学中に母と行ったアメリカ旅行で英語力の必要性を実感し、留学を志す。その後、カナダの大学院へスポーツマネージメント留学。卒業後、留学コンサルタントを経て、現在はカナダ・トロントにあるセンテニアル・カレッジの留学生担当として活動。また自社ブランドを立ち上げ、カナダ産のメイプルを使った特製のバットを生産し、カナダ野球の更なる発展へ尽力している。


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英語力ゼロからのスタートで、カナダの大学院で学び、就職、そして起業までたどり着いた山根さん。そこには、強い意志とたゆまぬ努力がありました。海外で野球に携わる仕事をするという夢を現実に変え、さらなる目標へ向かう力強いお話をお聞きしました。
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野球漬け人生のはじまり

私の野球人生のはじまりは、小学1年生の時でした。地元は甲子園が近く、野球が盛んな地域。大きなグラウンドがあり、野球をするために子どもたちが集まって来ていました。私も放課後には、毎日そのグラウンドに行って練習をし、小学校低学年にして、まさに野球漬けの日々。春夏は必ず甲子園に足を運び、野球関連のビデオをすり切れてしまうほど観ていた私の姿に、両親は「勉強もこれくらい熱心にやってくれるといいけどなあ」と言っていたものです。すべては野球のために生活をしていたと言えるでしょう。

震災を乗り越えて

12980572_10156753902030398_18539772小学校で一緒に野球をしていたメンバーとともに「チームを強くしよう」と、地元の中学に進学。さらに野球色に染まった時間を過ごし、高校進学を控えた中学3年の冬、阪神淡路大震災が起こったのです。自分も含め野球部のメンバーの多くが被災。これまでの価値観を変えるほどの大きな出来事であり、この日を境に「生きている」ではなく「生かされている」と思うようになりました。「1度きりの人生。やりたいことを思い切りやろう」という思いで、甲子園を目指せる高校への進学を決めました。私の入学した年は、3年計画でチームを強くするという方針のもと、関西・中国地方を中心にレベルの高い選手が集まって来ていました。「この中で3年間野球を続けていければいい」と思うほど、周りのレベルは高く、毎日の練習は長く厳しいものでした。私は左投げが重宝され、バッティングピッチャーを務めていました。2年生時に甲子園出場。震災から2年目の年で、神戸復興の願いを込めて、多くの人が応援してくれました。練習のほかには、監督さんの教えであるボランティア活動も頻繁に行っていました。

ピンチもチャンスに変えてみせる

推薦で大学進学が決まり、入学を控えていたある日、「人生を変えた」と言えるアクシデントが起こりました。肩をこわし、推薦入学を断念。野球の道が閉ざされ、目標を失ってしまいました。入学後は、アルバイトに精を出す毎日。そんな大学生活の中、3年生の時に、母とアメリカ旅行に行ったのですが、これまで興味のなかった英語の必要性を強く感じたのです。英語ができれば世界が変わるだろうと思うようになりました。そこで、留学を決意。英語を自由自在に話せるようになり、野球に携わる仕事がしたいと考えました。もし、肩をこわさずに、あるいはこわした肩にムチを打って野球を続けていたら、旅行はできなかったと思うので、肩をこわしたアクシデントも悪いことばかりではなかった。人生を別のよい方向に変えたと言っても過言ではありません。

トロントへ語学留学

12992749_10156753908410398_16674116大学卒業後、トロントへ1年間の留学。トロントを選んだのは、大学教授をしている叔父からのすすめでした。まずは、語学学校からのスタート。クラスは、ビギナークラスなのですが、学校の担当者がそのクラスに入ることさえもためらうほどでした。この頃の英語のレベルは「How are you?」と言われて「Yes!」と答えていたくらいですから(笑)。しかし、せっかく英語を話す環境にいるのだから、学校にいる日本人と話す時にも頑張って英語で話すようにしていました。すると、その日本人たちが言うのです。「コウジは英語が話せないから、あとから日本語で話そう」と。悔しくて悔しくて「なにくそ!」と奮起。学校が終わったら図書館に通うようにし、閉館までびっちり勉強をするようになりました。この頃行っていたことの中に、1日5つの単語を覚えるというものがありました。1週間で25個、1か月100個。こうして徐々にボキャブラリーを増やしていきました。机上の勉強が軌道に乗ってきた頃、「やはり、会話をしなくては」と考え、勉強場所をコーヒーショップへ変更。道から窓越しに姿が見えるので、同じ下宿の仲間がみつけて話し掛けてくれるようになりました。自分自身も「次はこれを話してみよう」と、会話を楽しめるようになり、コミュニケーション力が上がっていきました。

進むべき道を歩むために

1年間の留学生活が終わる頃には、今後、自分がやりたいことが見えてきました。アメリカやカナダでは、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーなど、スポーツでたくさんの人を集めることができます。「すごい!なぜこんなに人を魅了できるのか」をいう思いから、スポーツマネージメントをきちんと学んでみたいと考えるように。そのためには、まず、資金づくりです。帰国して2年間、仕事をいくつか掛け持ちして、留学の資金をためました。次は、ワーキングホリデーでトロントへ。最初の1年は、仕事中心。2年目は大学院に入るための英語の勉強をして、3年目についに、トロントの大学院へ入学しました。少し時間はかかりましたが、どうしてもスポーツマネージメントの勉強がしたいという気持ちと、野球に携わり続けることが高校の監督さんへの恩返しだという思いが、自分を支えてくれました。

カナダに残る決意

大学院卒業後は、自分の留学経験を活かせる仕事をしたいと考え、カナダにで留学のサポートなどをする仕事に就きました。この仕事を7年間続けたのち、永住権を獲得。これまでやってきたことが実を結んだようで嬉しい反面、少し困ったことも起こってしまいました。仕事で独立するという話がある中、信頼していた人とうまくいかず、周りの人からも誤解されてしまったのです。「もう、日本に帰ろうかな」と思っていたとき、1番信頼していた人からも「縁を切る」と言われてしまいました。しかし、ここで事実と自分の気持ちをきちんと話さないといけないと思い、すべてを話すと、その人は「悪かった。これからは自分が君を全力で守る」と理解してくれました。この出来事があったおかげで、もう一度、カナダで頑張ろうという気持ちになれたのです。

巡ってきた大きな転機

12987928_10156753904980398_139937_3ここで大きな転機がやってきます。まず、私には政府関連の機関で仕事をしているカナダ人の知り合いがいました。彼女の3人の息子さんたちが野球をしているということもあって、普段からよく話をする職員の方でした。ある日、その職員の方のところに1件の電話がやってきます。電話の主は、サンダーベイ国際野球連盟のエグセクティブディレクターの方。トロントでU18の国際野球大会を開催しているが、日本のチームが参加していないため、ぜひ、参加するように呼びかけたいということでした。電話をとった彼女は真っ先に「山根さんの顔が浮かんだ」と言って、私をその連盟のディレクターに紹介してくれました。それから話が進み、私もディレクターの方が出席するグループミーティングに参加。スポンサー探しなら役に立てないかもなあと思いながら帰っていると、そのディレクターの方とたまたま同じ電車に乗ることに。すると、当時、トロントのメジャー球団・ブルージェイズで活躍していた川﨑選手のインタビューをするので、通訳できてほしいと言うではありませんか。私としては、素晴らしいチャンス。インタビューに同行させていただき、後日、ボストン・レッドソックスで活躍している上原投手ともお話する機会をいただきました。

出会いが生んだ新たな道

ディレクターの方は、さらに、おもしろい話を運んで来てくれました。バットを作っている日本の会社が、材料になるメープルの木を視察するためにカナダへやって来るから、ぜひ、会ってほしい、と。私自身も、たまたまカナダに木材工場をやっている知人がおり、話がどんどんよい方向進んでいきました。せっかくこうした出会いがあったのだから、仕事をつなげていきたいと考え「日本にある要らないバットをカナダで売ることはできないかな」と思っていたところ、なんと、日本から来ている社長が、同じことを提案してくれたのです。早速、立ち上げのために日本に帰国。カナダで会社をつくることになりました。さらには、大学に野球部をつくる話まで進むことができ、これまで目指してきたものが一気に花開いた時でした。

海外を目指す皆さんへ

12988159_10156753912475398_14531504最初はまったく英語を話せなかった私が、海外でここまでやって来れたのは、人との出会いを大切にしてきたからだと思います。もちろん、成功するためには英語力も必要ですが、それ以上に大切なのが人との出会いではないでしょうか。そして、日本にはこれまで一緒に野球をしてきた仲間がいたから、どんな時も頑張ることができました。これから海外へ行こうとしている皆さんにお伝えしたいのは、海外では自分から動かなくては何も始まらないということです。動くというのは自分でどんどん進んでいくことのように思えますが、人に頼ることも動くことです。私も日本にいたら意地を張って、誰も頼らずにいたかもしれません。でも、海外に来て自分の弱さを知りました。それに気づいた時、人の弱さも受け止めることができたのです。そして、道に迷った時は、自分の思いをまわりの友人に伝えてみてください。夢でも初めに持った思いでもいい。話すことで迷いそうになった道が、もう一度見えてきます。高校の監督からいただいた大切な言葉があります。「あせらず、あきらめず」。監督就任35周年記念の色紙に書いてあった言葉なのですが、私の座右の銘になっています。この言葉をモットーに、今後はトロントにバット工場を作ろうと動いています。工場ではオーダーメイドのバットを作り、そこで試し打ちや練習もできる施設をつくることが目標です!


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2014年12月12日 (金)

Vol.13 マネジメント留学:長又 淳史さん

Nagamatatop雲雀丘学園高 → 神戸学院大 → カイザー大学 → セント・トーマス大学大学院 → 横浜DeNAベイスターズ通訳

プロ野球の球団職員になりたいという夢を叶えるため、大学卒業後にスポーツマネジメント留学。シカゴ・カブス傘下のデイトナ・カブスで2年間のインターンシップを経て、大学院にて本格的にスポーツマネジメントを学ぶ。卒業後は横浜DeNAベイスターズの通訳として4年間従事。アレックス・ラミレス選手('12~'13)やナイジャー・モーガン選手('13)など球界を代表する外国人選手らのパートナーとして活躍した。

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アメリカのプロ球団でのインターンのポジションを勝ち取り2年間務めあげた後、4年間、横浜DeNAベイスターズの通訳として従事した長又淳史さん。前向きな気持ちで運命的な出会いを次々に引き寄せた貴重なお話をお聞きしました。

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目標への一歩

Nagamata3中学から野球を始め、ずっと野球が好きでした。将来は漠然と日本のプロ野球チームのフロントで働きたいと考えていたのですが、実際働くためにはどうすればいいのかわからずにいました。そんな時、私の人生を変える1冊の本に出逢ったのです。アメリカ・マイナー球団で日本人初となるフロントスタッフとして活躍をした「ヨシ岡本」さんの本です。この本を読んで、フィールドは日本だけではなくアメリカにもあるんだと気づき、海外への思いが強まりました。岡本さんとは実際お会いしてお話もさせていただたいのですが「現実は厳しいぞ」と言われました。それでも決意した気持ちは、変わりませんでした。まずは大学在学中に、カナダ・モントリオールへ1か月の短期留学。その時にオタワのマイナーリーグ球団に連絡先を渡してまわりました。目標に向かって踏み出した時でした。

目標達成への道

大学卒業後は、迷わず長期留学への道を選びました。サンフランシスコの語学学校に通ったのですが、アジア人が多くコミュニティが発達していました。もちろんよい点もあるのですが、もう少し日本人が少ない環境に身を置きたいと考え、テキサスの語学学校へ編入。そして、渡米して半年が経った頃、メジャーリーグ界のジョブフェアとも言われるウインターミーティングに参加することになりました。この時点でまだ英語が思うように話せなかったにもかかわらず、履歴書を100通ほど提出。そのうち3球団が面接をしてくれることになりました。やはり、英語での面接は思うようには話せず、さらに風邪をひいて声が出ないというアクシデントも重なり、正直、よい手ごたえは感じられませんでした。しかし、予想外の結果が待っていました。英語力より日本人の真面目さを重視してくれたシカゴ・カブス傘下のマイナー球団に、インターンとして採用が決まったのです。

英語に囲まれた毎日

Fb_img_1416420352266フロリダで他のインターン仲間4人と1軒家を借りてシェアし、大学の授業後にチームへ行ってインターンをするという日々が始まりました。仕事も生活も英語を使わざる得ない環境。最初は聞き取れなくて聞き返してばかりでしたが、とにかく楽しい気持ちが先行していました。スポンサー探しの営業活動で電話を掛けなくてはいけなかったのですが、アメリカ人に書いてもらった例文をひたすら電話口で読み上げるのに必死。当然、相手の言っていることはわかりません(笑)。飛び入り営業をしても横で話を聞いているだけ。自分が何の戦力にもなっていないとわかっていたので、最初の1年はとにかく自分のできることを最大限にしようと、前向きな気持ちでいることを心掛けました。

さらにもう1年、自分の力を試したい

Nagamata4_2インターンを始めて1年経った頃、不完全燃焼のまま終わりたくないと思い「もう1年やらせてほしい」とお願いしたところ、OKをもらいました。新しいスポンサー探し、設備の準備やビラ配り、スタンドまわってイベント用のグッズを売ることが通常の仕事でした。雨が降った時はびしょ濡れになりながら、グランウンドへシートかぶせる作業をしたのですが、驚くことに社員やGMまでもが一緒に作業をするのです。その姿を見て「どんな仕事でも文句を言わずにやらなくてはいけないな」と思うようになり、皆が嫌がるマスコットの中に入るような仕事も率先して行うようにしました。

それに加え、清掃のリーダー、イベントの企画と運営も行い日系企業からの支援も得て「ジャパニーズナイト」を開催しました。こちらは企画会議で自ら提案し指揮をとった企画で、2年間のインターン生活で1番大きな仕事だったかもしれません。日本の音楽を流し、和太鼓のパフォーマンス、日本から取り寄せた風鈴でスタジアムに日本の風景を作りあげました。また、梅酒の販売や日本ではお馴染みのジェット風船を飛ばすと、観客が喜んでくれました。スタッフの先頭に立ち、スタジアム一体をまとめるために、必死で英語力を駆使していたのを覚えています。結果、少しではありますが球団に利益をもたらすことができ、これまでの恩返しができたようで嬉しかったです。

Nagamata8_2チームの皆は、私の英語がたどたどしいのを理解した上で接してくれました。おかげで大変なこともありましたが、働きやすい環境のもと、とても楽しく仕事をしていました。辛かったのは日本食が食べられなかったことくらいです(笑)。球団職員のイメージとは少し違う部分もありましたが、「これがマイナーリーグなんだ」ということを体験でき、むしろ良かったと感じています。2年目は、やりたいことはやり切ったという気持ちで終えることができました。



ドミニカでの貴重な経験

2年間のインターン後は「もっとスポーツマネージメントの勉強がしたい」と思い、大学院への進学を決めました。授業で使う英語はレベルが上がり、不安はあったものの苦労とは思いませんでした。大学院在学中、ドミニカへ野球を観に行くことがあったのですが、そこで現地で活躍する日本人トレーナーの方と仲良くなりました。その方のおかげでチームに帯同させてもらうことになったのです。さらに、再度ドミニカへ行った時には、横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の国際スカウトの方が視察に来ており、一緒に行動をさせていただきました。ドミニカでの2回の貴重な経験は、運命的なものだったと感じています。

ベイスターズの通訳者として

Nagamata1_3就職活動のためにあるSNSに登録したのですが、使い方がよくわからず、連絡先に登録している全員に自動でメッセージを送ってしまうという大変ことをしでかしました。しかし、このアクシデントが、運命的なつながりをもたらしてくれるとは思いもよりませんでした。ドミニカでお会いして以来疎遠になっていたベイスターズのスカウトの方とつながり、なんと先方からご連絡をいただいたのです。「ベイスターズで通訳を探している」というお話をいただき、帰国後、面接を受け採用となりました。いざ働き出してみると、やはりアメリカと日本のプロ野球の違いを感じ、最初は慣れるのに時間がかかりました。

日本で仕事をする以上は、日本のルールに従ってやっていかなくてはいけません。時間やスケジュールの厳守、きちんとした服装など「ここはアメリカではない!」と、自分に言い聞かせました。また、通訳という仕事は、球団と選手の間に入らなくてはいけないので、難しい立場でもありました。外国人選手は不満があってもコーチには伝えず、通訳者のみに伝えます。それを周りにうまく伝えるのも通訳の仕事です。時には外国人選手を指導することも必要ですが、理解してもらえず2か月ほど口をきいてくれないことも。「選手にストレスを与えない」ことが通訳としてのプライドだと考え、自分は選手を受け止めるサンドバッグになろうと思いました。自分を犠牲にすることもありましたが、面倒を見ている選手の活躍が、何よりの喜びでした。

目的をしっかり持つことが自分を変える

Nagamata2_2振り返ってみるとアメリカでの5年半の生活は、あっという間に過ぎていきました。ウインターミーティングに参加し、目標だったインターンができたことが、すべてにつながっていったと思います。これから留学を目指す方は、目的をしっかり決めておくことが大切です。最終段階でなくてもかまいません。途中のゴールを決めておくと、たとえまわり道をしてもたどり着けるはずです。私はもともとあまり積極的なタイプでもリーダーシップをとるタイプでもありませんでしたが、目的を決めることでアグレッシブになれました。そして、時には周りの人に背中を押してもらうことも必要。自分の意志を貫く部分と相手の意見を受け入れる柔軟さを両方持ち合わせていることが理想だと思います。私はやはり野球が好きです。今後も野球と関わる仕事を続けていきたいと思っていますので、皆さんもあきらめずに前向きに進んでください。


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年12月25日 (火)

Vol.10 マネジメント留学:藤沢 剛さん

2_2 秋田県立角舘高 → 日本大学 → インディアナ州立大学大学院 → 東京ヤクルトスワローズ編成部国際担当・通訳

日本大学卒業後、アメリカの大学院へスポーツマネジメント留学。在学中は大手スポーツマネジメント会社で学生インターンとして、多くの日本人メジャーリーガーをサポートする。帰国後は東京ヤクルトスワローズの編成部国際担当・通訳として活躍中。




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就職活動中にアメリカスポーツマネジメント留学を決め、現在はプロ野球の現場で働く藤沢さん。インターンシップと片道3時間半かけて通った大学院の授業の両立で得たものとは。
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アメリカ行きを決めた時

1アメリカへのスポーツマネジメント留学を決めたのは、大手スポーツマネジメント会社の方との出会いがきっかけでした。その時はまさに、就職活動まっただ中で、日本で各社の面接を受けている状況だったのですが、その方の話を聞いたことでアメリカ行きのスイッチが入りました。その話とは「今後、メジャーリーグを目指す日本人選手が増えていくだろう。選手をしっかりサポートできるスタッフとして、アメリカで英語やスポーツマネジメントを勉強した人が求められるようになる。野球界に興味があるなら挑戦してみたらどうか」という内容でした。それまでは野球界に興味があっても、たやすく仕事ができるような場ではないと思っていました。今までは野球界に興味があっても、たやすく仕事ができる場ではないと思っていました。心の奥にあった気持ちが「挑戦」という形で現れてからは、日本での就職はやめようと、決まっていた面接の予定をすべてキャンセルしました。もちろん、アメリカに行って思い描いたとおりになる保障はありません。しかし、本当にやりたいことを実現するためには、逃げ道を作っておくような中途半端な気持ちではなく、自分の持っているものすべてをその目標に賭けて挑まなくてはいけないと思ったのです。

日本には戻らない覚悟で 

大学2年生の時に、交換留学生としてアメリカのアラバマ州にある私立大学に1年間通いました。英語が好きだから留学したというより、就職のために英語ができたほうがいいだろうという両親のすすめがきっかけでした。1年間の留学を終えて、英語で日常会話ができるようになった私を見た両親は、このまま日本で英語を活かして就職をするものだと思っていたようです。ですから「日本での就職をやめてアメリカにいきたい」と話した時は、猛反対を受けました。秋田の実家に戻っても、父親が口を聞いてくれないこともありました。そんな反対を押し切ってまで決めた二度目の渡米です。「簡単に帰ってくることはできない。アメリカで行けるところまで行こう」という覚悟で海を渡りました。

厳しい言葉がくれた力

Photo猛反対していた両親からの金銭的な援助を望むことはできませんでした。そのため大学院入学前に英語学校へ通うための資金と時間に余裕がなく、渡米後すぐ大学院に入学しました。それは、まるでウォーミングアップをせずに、いきなり全力疾走をするようなものでした。1年目は大学院の授業についていくのが大変で、ディベートのクラスでは、自分だけ何も話せないこともありました。課題をこなすために、寝る時間もほとんど無いような毎日。そんな時、担任の教授から呼ばれたんです。「授業中に発言もしないし、課題もなんとか提出している状態。留学生だからと言って甘えていてはいけない!あなたは留学生である前に、大学院生なのだから」と叱責を受けました。普段はなかなか理解できない英語も、怒っている時に限って、不思議とよく分かってしまうんですよね(笑)。その時はかなり落ち込みましたし悔しかったですけど、私のような留学生にここまで言ってくれる教授はなかなかいません。今となっては、真剣に学生のことを考えてくれる教授に出会えてたことに感謝しています。

日本人としての意識を持って

2008texst大学院2年目には、留学のきっかけをくれたスポーツマネジメント会社の方の紹介で、一時帰国中して東京ヤクルトスワローズで2ヶ月間のアルバイトをしました。仕事内容は、当時、チームにいたディッキー・ゴンザレス選手(元読売ジャイアンツ)の通訳です。球団からは「よくやってくれた」と仕事ぶりを評価して頂いたようで、大学院の授業やアメリカでの生活は苦労したこともありましたが、頑張れば見てくれる人はいるのだなと実感したことを覚えています。その後、アメリカのシカゴにあるスポーツマネジメント会社で、インターンシップが始まりました。城島選手(当時シアトル・マリナーズ)、岩村選手(当時タンパベイ・レイズ)、田口選手(当時セントルイス・カージナルス)がメジャーリーグで活躍していた頃で、選手や家族のビザ申請や、住宅の契約などをしていました。その頃、ホワイトソックスでプレーしていた大家選手のサポートをさせてもらったのですが、色々なことを教えて頂きました。大家選手は私のできていないことを、きちんと指摘してくださる方で、特に礼儀作法には厳しかったですね。いつも「アメリカにいても日本人であることを忘れるな」とおっしゃっていました。大家選手からの指導があったからこそ、私はどこにいても日本人として恥ずかしくない仕事や振る舞いをしようと思うようになれました。大家選手には、敢えて誰も教えてくれない常識や、社会人として大切なことを教えて頂きました。それは、外国人選手を相手とする今の仕事にも役に立っています。

留学をして得たものは「考える力」

Img_6053_4 大学院卒業後は、そのままアメリカで就職する計画を立てていたのですが、ヤクルトスワローズから声をかけて頂き、編成部国際担当・通訳として採用が決まりました。最初は、日本には戻らないつもりで渡ったアメリカでしたが、たとえ海外で就職するとしても、日本人としての長所を生かすためには日本の社会を知ることも必要だと考えるようになっていました。このような前向きな考え方は、留学を通じて自然に身についたものだと思っています。以前はすぐにあきらめていたことも、今はこうすればできるのではないかと考える力がつきました。それは、「夢」を「目標」として現実世界に持って来るような思考回路だと思うのです。目標を持って、それを達成するためにはどうすればよいかと、いつも考えています。

チャンスと出会いを発展させよう

Img_20121122_144705進路を探している皆さんは、まず、目の前のチャンスに飛び込んでいくことが大切です。新しい世界に飛び込むことで新しい出会いがあり、よい出会いは自分を成長させてくれます。そして、そこから発展させていくのは、やはり自分次第です。就職活動をしている学生の方から進路についての相談を受けることもありますが「今、紹介できるような仕事はない」と言うと、それで終わってしまいます。簡単なやりとりだけをして、それで連絡が途絶えてしまうこともあります。せっかく、調べて私にたどり着いたのであれば、もっと貪欲にぶつかってきてほしいと思います。私自身、たくさんの方々との出会いに恵まれたおかげで前に進めたこともあり、そのすべての出会いに感謝しています。だから、今度は私が志のある人に、還元する番。就職が決まったなら、たとえ別の業界であっても報告をしてくれてもいいのです。そこでできたつながりが、将来、何かに発展することもあります。そのように夢や目標につながっていくものなのだ私は思います。


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年12月 7日 (金)

Vol.9 マネジメント留学:藤野 哲平さん 

378457_2901377340672_746795584_n→ 日本大学 → バンクーバー・カナディアンズ(MLBトロント・ブルージェイズ マイナー球団)

日本大学時代に参加したアメリカ・サマーリーグで海外の野球に魅せられ、留学を決意。スポーツマネジメントを学ぶため、MLBトロント・ブルージェイズのマイナー球団での短期インターンシップに参加。その後、同球団では日本人初となるフルタイムの球団職員として3シーズンに渡りチームをサポートした。現在はアメリカ・ニューヨークで飲食店のマネージャーとして活躍中。


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遠回りだと思われることも、すべて夢へのプロセスに変えていく力を持つ藤野さん。大学時代からカナダでのインターンを経て、現在、ニューヨークで働くに至ったバイタリティにあふれるお話をお聞きしました。
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近いようで遠かったアメリカ留学

285171_2301348180318_2564610_n 大学時代は体育会硬式野球部には所属せず、地元のクラブチームでプレーをしながら、プロ野球選手を目指していました。さらに、夏休みにはアメリカで開催されるトライアウト形式のサマーリーグにも参加しました。そのサマーリーグでのプレーを見てくれたコーチから「アメリカの大学でやってみないか」と誘いを受けましたが、全く英語ができなかったので、仕方がなく断念。やはり英語が話せるようになりたいと思い、日本に戻って語学学校に通い始めました。よい先生にも恵まれ、半年ほどでアメリカの大学に入る英語テスト(TOEFL)の点数をクリアすることできました。一度は断念したアメリカへの留学が決まり、あとは渡米を待つだけでした。しかし、ここで考えてもいなかったことが起こったのです。それは「ファイブイヤーズ」という制度。これは大学生としてプレーできるのは、通算5年までというきまりです。私は日本の大学ですでに4年間プレーをしていたため、残り1年しかないという状況だったのです。大学に通うことはできても、野球ができないのなら意味が無いと留学を取り止めました。この時、大学4年生の6月。少し遅れて、日本で就職活動を始めることになりました。

3度目でつかんだチャンス 

大学卒業後に入社したのは、都内のベンチャー広告代理店。働き出してからも、プロ野球選手になることはあきらめきれず、何度か日本でトライアウトを受けていたんです。しかし、仕事をしながら、野球ができる環境を維持していくこは想像以上に困難でした。そこで、前々から興味を持っていたスポーツビジネスを勉強するために、もう一度、海外を目指そうと決意しました。働いて1年半が過ぎた頃、ある募集を目にしたんです。それは、北米の地でインターンをし、スポーツビジネスが学べるというもの。まさに私が望んでいる場所と内容だったので、すぐに応募しました。選考はすべて日本で行われ、書類選考を通過後、英語の面接が行われました。聞いたところによると、競争率も高かったみたいですが、忘れかけていた英語を駆使して必死で話した結果、なんと合格。留学を2回あきらめて、ようやくたどり着いたチャンスでした。

期待の向こう側にあった現実

208132_1015917485354_3536_n_2アメリカのプロ球団がカナダに唯一本拠地を置く、MLBトロント・ブルージェイズ傘下のマイナーリーグ球団バンクーバー・カナディアンズで、1ヶ月半のインターンが始まりました。もともとスポーツビジネスに興味を持ったのは、学生時代のサマーリーグに参加した時でした。チームオーナーの仕事を見て、おもしろいなと感じて。オーナーは、食事や宿泊などの世話はもちろん、地域の子どもを集めて野球教室をして、集めた資金でチームを運営していました。チームからいい選手が出ればプロにいくこともあるし、チームを作って選手支える仕事が魅力的だったんです。それを目指す第一歩として、期待を胸にカナダに行ったのですが……。仕事といえば、いすや看板などの設備修理や掃除ばかり。事前に雑用が多いとは聞いていたのですが、正直ここまでだとは思っていませんでした。しかし、やるべきことは手を抜かず全力を尽くしました。長いようで短かった1ヶ月半が終わり、帰国。それでも、スポーツビジネスがしたい気持ちは変わらなかったですね。そこでワーキンホリデーのビザを取り、オーストラリアに行く計画を立てました。

カナダに戻る決意

そんな時、すでに留学を経験し、野球関係の仕事をしている知人に会いました。オーストラリアに行くことを話すと、彼はこうアドバイスしてくれたんです。「カナダでせっかくつながりができたのだから、もう一度戻ったほうがいいよ。確かに、新しい場所へ飛び出すのもいいけれど、せっかくできたつながりが点のように存在するだけで、線にはならないから」と。もう一度、お世話になったカナディアンズにコンタクトをとってみることにしました。「お金はいらないし、週に2、3日でもいいから、何かやらせてもらえないか」と話したところ「ちょうど、オペレーションのアシスタントを一人雇いたかったんだ。それと、日本人のインターンを採用したいから、そのパイプ役になってほしい」と言ってくれたんです。戻ることが決まると、カナディアンズのスタッフたちも喜んでくれました。今思えば、知人のアドバイスが大きかったですね。それが無ければ、オーストラリアに行っていましたから。最終的に決断し行動するのは自分ですが、周りの人が自分のためにかけてくれる言葉に耳を傾けて、受け入れることも大事だと思いました。

心に決めた道を進むために

215111_2301357740557_6738249_n カナディアンズでの業務は、シーズン中はスタッフミーティングの参加、設備の点検修理、シーズン以外のイベントのための設営や準備を行いました。業務以外のことで自分にできることはないかと考え、広報のための営業もしました。日系の企業をまわってスポンサーを探したり、バンクーバーで配布されている日本人向けの新聞の中で、広報してもらえるように依頼をしたり。仕事量は多かったですが、自分の進みたい道をしっかり歩き出したので、修行だと思ってどんなことでも頑張るつもりでした。チームの状態が上向きだったので、経営のノウハウも学べ、それは今の仕事にもとても役に立っています。2年半の勤務が終わる頃には、最初は1つだったつながりが、いくつものつながりになっていたのです。

動き出す前に目標を定めよう

282410_2301351980413_5110145_n海外に行こうとしているのなら、まずは、自分が何をやりたいのかを絞ることが大事だと思います。行ってから決めるのではなく。海外では、日本以上に専門分野や業務内容で細かく職種が分かれています。それを絞った上で、情報収集をして目標を定めて動くほうがいいですね。現地の人でインターンをしている人たちも本気ですから、腹を据えて行かないと勝ち抜くことは難しいでしょう。あと、人の人とのつながり、ネットワークを作っていく行動力も必要です。私は今、カナディアンズの球団社長から紹介をいただき、ニューヨークの飲食店で店長をしていますが、どんな仕事をしていても人のつながりの大切さを実感しています。いずれは野球界に限らず、スポーツの世界には戻りたいと思っていますが、現在の仕事でできたネットワークや、店長としてスタッフを動かすことで得たものは、必ず将来に活かされると思うんです。目標は、サマーリーグの時に会ったチームオーナーのように、球団の運営や、選手が快適にプレーする環境を作っていくことです。


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)