Vol.19 マネジメント留学:山根耕治さん
神港学園 → 大阪学院大 → ジョージブラウン・カレッジ大学院
強豪・神港学園高校では2年生時に甲子園出場。卒業後、大阪学院大学へ進学するも、怪我のため野球を断念。在学中に母と行ったアメリカ旅行で英語力の必要性を実感し、留学を志す。その後、カナダの大学院へスポーツマネージメント留学。卒業後、留学コンサルタントを経て、現在はカナダ・トロントにあるセンテニアル・カレッジの留学生担当として活動。また自社ブランドを立ち上げ、カナダ産のメイプルを使った特製のバットを生産し、カナダ野球の更なる発展へ尽力している。
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英語力ゼロからのスタートで、カナダの大学院で学び、就職、そして起業までたどり着いた山根さん。そこには、強い意志とたゆまぬ努力がありました。海外で野球に携わる仕事をするという夢を現実に変え、さらなる目標へ向かう力強いお話をお聞きしました。
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野球漬け人生のはじまり
私の野球人生のはじまりは、小学1年生の時でした。地元は甲子園が近く、野球が盛んな地域。大きなグラウンドがあり、野球をするために子どもたちが集まって来ていました。私も放課後には、毎日そのグラウンドに行って練習をし、小学校低学年にして、まさに野球漬けの日々。春夏は必ず甲子園に足を運び、野球関連のビデオをすり切れてしまうほど観ていた私の姿に、両親は「勉強もこれくらい熱心にやってくれるといいけどなあ」と言っていたものです。すべては野球のために生活をしていたと言えるでしょう。
震災を乗り越えて
小学校で一緒に野球をしていたメンバーとともに「チームを強くしよう」と、地元の中学に進学。さらに野球色に染まった時間を過ごし、高校進学を控えた中学3年の冬、阪神淡路大震災が起こったのです。自分も含め野球部のメンバーの多くが被災。これまでの価値観を変えるほどの大きな出来事であり、この日を境に「生きている」ではなく「生かされている」と思うようになりました。「1度きりの人生。やりたいことを思い切りやろう」という思いで、甲子園を目指せる高校への進学を決めました。私の入学した年は、3年計画でチームを強くするという方針のもと、関西・中国地方を中心にレベルの高い選手が集まって来ていました。「この中で3年間野球を続けていければいい」と思うほど、周りのレベルは高く、毎日の練習は長く厳しいものでした。私は左投げが重宝され、バッティングピッチャーを務めていました。2年生時に甲子園出場。震災から2年目の年で、神戸復興の願いを込めて、多くの人が応援してくれました。練習のほかには、監督さんの教えであるボランティア活動も頻繁に行っていました。
ピンチもチャンスに変えてみせる
推薦で大学進学が決まり、入学を控えていたある日、「人生を変えた」と言えるアクシデントが起こりました。肩をこわし、推薦入学を断念。野球の道が閉ざされ、目標を失ってしまいました。入学後は、アルバイトに精を出す毎日。そんな大学生活の中、3年生の時に、母とアメリカ旅行に行ったのですが、これまで興味のなかった英語の必要性を強く感じたのです。英語ができれば世界が変わるだろうと思うようになりました。そこで、留学を決意。英語を自由自在に話せるようになり、野球に携わる仕事がしたいと考えました。もし、肩をこわさずに、あるいはこわした肩にムチを打って野球を続けていたら、旅行はできなかったと思うので、肩をこわしたアクシデントも悪いことばかりではなかった。人生を別のよい方向に変えたと言っても過言ではありません。
トロントへ語学留学
大学卒業後、トロントへ1年間の留学。トロントを選んだのは、大学教授をしている叔父からのすすめでした。まずは、語学学校からのスタート。クラスは、ビギナークラスなのですが、学校の担当者がそのクラスに入ることさえもためらうほどでした。この頃の英語のレベルは「How are you?」と言われて「Yes!」と答えていたくらいですから(笑)。しかし、せっかく英語を話す環境にいるのだから、学校にいる日本人と話す時にも頑張って英語で話すようにしていました。すると、その日本人たちが言うのです。「コウジは英語が話せないから、あとから日本語で話そう」と。悔しくて悔しくて「なにくそ!」と奮起。学校が終わったら図書館に通うようにし、閉館までびっちり勉強をするようになりました。この頃行っていたことの中に、1日5つの単語を覚えるというものがありました。1週間で25個、1か月100個。こうして徐々にボキャブラリーを増やしていきました。机上の勉強が軌道に乗ってきた頃、「やはり、会話をしなくては」と考え、勉強場所をコーヒーショップへ変更。道から窓越しに姿が見えるので、同じ下宿の仲間がみつけて話し掛けてくれるようになりました。自分自身も「次はこれを話してみよう」と、会話を楽しめるようになり、コミュニケーション力が上がっていきました。
進むべき道を歩むために
1年間の留学生活が終わる頃には、今後、自分がやりたいことが見えてきました。アメリカやカナダでは、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーなど、スポーツでたくさんの人を集めることができます。「すごい!なぜこんなに人を魅了できるのか」をいう思いから、スポーツマネージメントをきちんと学んでみたいと考えるように。そのためには、まず、資金づくりです。帰国して2年間、仕事をいくつか掛け持ちして、留学の資金をためました。次は、ワーキングホリデーでトロントへ。最初の1年は、仕事中心。2年目は大学院に入るための英語の勉強をして、3年目についに、トロントの大学院へ入学しました。少し時間はかかりましたが、どうしてもスポーツマネージメントの勉強がしたいという気持ちと、野球に携わり続けることが高校の監督さんへの恩返しだという思いが、自分を支えてくれました。
カナダに残る決意
大学院卒業後は、自分の留学経験を活かせる仕事をしたいと考え、カナダにで留学のサポートなどをする仕事に就きました。この仕事を7年間続けたのち、永住権を獲得。これまでやってきたことが実を結んだようで嬉しい反面、少し困ったことも起こってしまいました。仕事で独立するという話がある中、信頼していた人とうまくいかず、周りの人からも誤解されてしまったのです。「もう、日本に帰ろうかな」と思っていたとき、1番信頼していた人からも「縁を切る」と言われてしまいました。しかし、ここで事実と自分の気持ちをきちんと話さないといけないと思い、すべてを話すと、その人は「悪かった。これからは自分が君を全力で守る」と理解してくれました。この出来事があったおかげで、もう一度、カナダで頑張ろうという気持ちになれたのです。
巡ってきた大きな転機
ここで大きな転機がやってきます。まず、私には政府関連の機関で仕事をしているカナダ人の知り合いがいました。彼女の3人の息子さんたちが野球をしているということもあって、普段からよく話をする職員の方でした。ある日、その職員の方のところに1件の電話がやってきます。電話の主は、サンダーベイ国際野球連盟のエグセクティブディレクターの方。トロントでU18の国際野球大会を開催しているが、日本のチームが参加していないため、ぜひ、参加するように呼びかけたいということでした。電話をとった彼女は真っ先に「山根さんの顔が浮かんだ」と言って、私をその連盟のディレクターに紹介してくれました。それから話が進み、私もディレクターの方が出席するグループミーティングに参加。スポンサー探しなら役に立てないかもなあと思いながら帰っていると、そのディレクターの方とたまたま同じ電車に乗ることに。すると、当時、トロントのメジャー球団・ブルージェイズで活躍していた川﨑選手のインタビューをするので、通訳できてほしいと言うではありませんか。私としては、素晴らしいチャンス。インタビューに同行させていただき、後日、ボストン・レッドソックスで活躍している上原投手ともお話する機会をいただきました。
出会いが生んだ新たな道
ディレクターの方は、さらに、おもしろい話を運んで来てくれました。バットを作っている日本の会社が、材料になるメープルの木を視察するためにカナダへやって来るから、ぜひ、会ってほしい、と。私自身も、たまたまカナダに木材工場をやっている知人がおり、話がどんどんよい方向進んでいきました。せっかくこうした出会いがあったのだから、仕事をつなげていきたいと考え「日本にある要らないバットをカナダで売ることはできないかな」と思っていたところ、なんと、日本から来ている社長が、同じことを提案してくれたのです。早速、立ち上げのために日本に帰国。カナダで会社をつくることになりました。さらには、大学に野球部をつくる話まで進むことができ、これまで目指してきたものが一気に花開いた時でした。
海外を目指す皆さんへ
最初はまったく英語を話せなかった私が、海外でここまでやって来れたのは、人との出会いを大切にしてきたからだと思います。もちろん、成功するためには英語力も必要ですが、それ以上に大切なのが人との出会いではないでしょうか。そして、日本にはこれまで一緒に野球をしてきた仲間がいたから、どんな時も頑張ることができました。これから海外へ行こうとしている皆さんにお伝えしたいのは、海外では自分から動かなくては何も始まらないということです。動くというのは自分でどんどん進んでいくことのように思えますが、人に頼ることも動くことです。私も日本にいたら意地を張って、誰も頼らずにいたかもしれません。でも、海外に来て自分の弱さを知りました。それに気づいた時、人の弱さも受け止めることができたのです。そして、道に迷った時は、自分の思いをまわりの友人に伝えてみてください。夢でも初めに持った思いでもいい。話すことで迷いそうになった道が、もう一度見えてきます。高校の監督からいただいた大切な言葉があります。「あせらず、あきらめず」。監督就任35周年記念の色紙に書いてあった言葉なのですが、私の座右の銘になっています。この言葉をモットーに、今後はトロントにバット工場を作ろうと動いています。工場ではオーダーメイドのバットを作り、そこで試し打ちや練習もできる施設をつくることが目標です!
【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)