カテゴリー「トレーナー留学」の11件の記事

2020年3月27日 (金)

Vol.24 トレーナー留学:大村 夕香里さん

茅ヶ崎高-Alderson-Broaddus College(米国大学)-California University of Pennsylvania(米国大学院)

Oshima6 米国大学ではスポーツ医学とビジネスを学び、米国大学院ではアスレティックトレーニングの修士課程を修了。大学院卒業後、Morgan State University(米ボルチモア)でアシスタントアスレティックトレーナーとして、主にアメフトや陸上選手のスポーツ障害やリハビリ処置などに従事。その後、Coppin State Universty(米ボルチモア)ではヘッドトレーナーとして、主に男女バスケットボール部をサポート。4年間のアメリカ生活を経て帰国し、現在は専門学校講師や一流スポーツ選手の英会話講師として活躍中。


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ある時出会った「スポーツ医学」という学問。大村夕香里さんは自分の進む道はここしかないと、強い信念を持ってアメリカに渡りました。日本人だからこそぶつかった壁、日本人だからこそ乗り越えられた壁、そして何よりアメリカの地で確立した自分。海外での就業経験者の中でもめずらしいキャリアを持つ大村さんにお話を伺いました。


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明確な目標を持って

小学生からソフトボールを始めた私は、思い描く自分像がありました。それは「ケガをした時に自分自身でテーピングする人」。そうなるためには、看護師なのか別の医療系職種なのか、進む道を模索していました。こうして高校卒業後の進路を決める時がやって来ました。専門学校や大学などを様々な学校を調べてみましたが、ピンと来るものはありません。そんな時、アメリカの大学に「スポーツ医学」という専攻があることを知り、これこそが自分のやりたいことに直結すると感じたのです。

日本の入試システムに疑問を持っていたこともあり、アメリカに行きたい気持ちが強くなっていきました。実は、高校時代にも、アメリカへの交換留学を試みたことがありました。実際に渡米もしたのですが、1か月で帰国。現地で「英語力に問題がある」と言われ、高校に入ることができなかったのです。その苦い経験から高校卒業後は、日本で留学準備のために専門学校へ進学しました。英語は得意科目ではありませんでしたが、「英語さえクリアすれば、自分の目指すスポーツ医学を学ぶことができる!」と考えていました。専門学校の授業は英語で行われるため実力が身につき、TOEFLの点数も随分上がりました。そして、TOEFL6回目の挑戦で、志望校の基準点に到達することができました。両親は高校時代に起こった交換留学のトラブルから少し心配はしていたものの、母は自由奔放な私のことを考えて、アメリカ行きを肯定してくれました。



望んだ環境を手に入れた時

Oshima3 私の進んだ大学はほとんど日本人がいない環境でした。アカデミックアドバイザーは、スポーツ医学を専攻する初の日本人に対し、どのように対応すればよいのか、戸惑っていたようです。さらに先輩からも「スポーツ医学は難しいから、おすすめできない」と言われていましたが、私の気持ちは変わりませんでした。

渡米当時の私は、シャイでまじめな日本人として、周囲の目に映っていたことでしょう。大学1、2年の頃は、英語で医学用語が飛び交う中、必死で勉強していました。マイノリティな存在である日本人として心配されていましたが、成績も良く、認められるようになっていました。3年生になると、まさに自分がやりたかったことを学べているのだと実感でき、学ぶことが楽しくて仕方がありませんでした。そして、4年生になり進路を決める時期が来ました。周りには高校の教師になる学生が多く、アスレティックトレーナーを目指しているのは私一人でした。そんな環境の中、アスレティックトレーナーに関する情報量が少なく、もう少し時間がほしいという気持ちから、大学院を視野に入れました。すでに4年生の12月になっていましたが、教授のアドバイスもあり、無事に大学院に進むことができました。私を待っていたのは、刺激的な日々。中にはすでにATCの資格を取得している学生もいましたし、皆で教え合って学ぶ、まさに切磋琢磨でした。


アスレティックトレーナーとして

Oshima1 こうしてあっという間に1年が過ぎました。アスレティックトレーナーの資格試験を受けるものの、数点足りずに不合格。インターンをしながら次の試験に備えましたが、皆が合格していく中で、自分だけ受からないという悔しさがありました。

大学在学中、3回目の挑戦でアスレティックトレーナーの試験に合格し、学内のアシスタントアスレティックトレーナーとして、アメフト選手や陸上選手のスポーツ障害やリハビリ処置などに従事しました。そこは、多人種が集まり自己主張が強いコニュニティー。これまで見たことのない世界を見ることができました。日本人というだけで拒否されることもありましたが、自分を唯一採用してくれた場所だったので「ここで何が何でも頑張る」という強い思いを持っていました。

そんなある日、隣の大学でアスレティックトレーナーを探しているとの情報を得ました。面接を受けると「日本人はよく働くから」と言われて採用が決定。その大学ではアスレティックトレーナーが続けて辞めてしまったため、採用者からヘッドトレーナーを選ぶということになっていたのです。こうしてあれよあれよと、私がヘッドトレーナーに。メンバーたちの管理はもちろん、コーチからのクレームを受けて調整する役目となり、マネジメント力が求められました。年配のトレーナーとぶつかり合いながら働くのは難しかったですが、先の3年間の経験が役に立ちました。ここでも常に「働かせてくれた。その分を返したい」という気持ちで闘いのような毎日を乗り越えていきました。

 

アスレティックトレーナーを目指して留学を考えている皆さんへ

Oshima2 アメリカは受け入れてくれる器が大きい国です。そんな中で誰に出会うかが大事。私は日本人が集まるところに参加し人脈をつくるのは苦手でしたが、本音で話せる友人・知人と出会え、ヘッドトレーナーとして人と接していると、人間力を育てることができました。私はすべてにおいて先入観がなかったことが功を奏したのだと思います。

皆さん自身にやりたいことがあるなら、損得を考えずに進むほうがよいと思います。私がアメリカにいた頃とは違って、今はどこにでも日本人がいます。流されないように自分をしっかり持つこと。とはいえ、何より大事なのは人との出会い、一期一会です。良い人に出会えたのなら、良いところを吸収していけるようになれればいいと思います。

アメリカに行くと、日本ではできない経験ができます。ただ、それを日本に持ち帰るだけではうまく行かないことがあるかもしれません。そこで、自分が良いと思うことを日本のトレーナー界で調和させられるように、工夫する対応力を養ってほしいと思います。また、アスレティックトレーナーとして可能性を広げるためには、加えて教師の免許を取ることをおすすめします。どこで働くのか、海外なのか日本なのかは、早めに決めたほうがよいでしょう。先々、自分がどのようなアスレティックトレーナーになるのか考えて行動していくことが、何より重要な準備ですよ!

【取材・文】金木有香
【運営】株式会社インディッグ

2016年11月28日 (月)

Vol.21 トレーナー留学:大貫 崇さん

Cimg0569桐蔭学園 → タウソン大学 → フロリダ大学大学院 → アリゾナ・ダイヤモンドバックス

神奈川県・桐蔭学園高校を卒業後、渡米。タウソン大学アスレティックトレーニング学科を卒業後、高校でヘッドアスレティックトレーナーとして働きながら06年にフロリダ大学大学院で応用運動生理学の修士号を取得。その後MLBレンジャースのインターンとして働き、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーとして勤務。理学療法クリニックにおいてアスレティックトレーナーとしてニューヨークやテキサスで計5年間勤務したのち、マイナーリーグアスレティックトレーナーとしてMLBダイアモンドバックスと契約。13年に帰国後は株式会社リーチに所属し、翌年9月より京都に投球ビデオ撮影ができるラボを開設し、アメリカの研究文献に基づく投球ビデオ分析サービスBMATを開設。日本の野球選手が幸せにプレーできるよう、野球障害予防とコンディショニングに力を入れている。


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「神様は努力をした人に『偶然』という架け橋を与える』という言葉があります。偶然は運がツイているから起こるように見えて、実は努力が引き起こしているという意味です。留学時代からその後のアメリカ生活において、不断の努力と強気と思いやりで人生の偶然を引き起こした大貫崇さん。パワーみなぎる独自のサクセスストーリーをお聞きしました。
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アメリカへの思いを突き動かした人物とは?

トレーナー留学の意志がかたまったのは、センター試験の1日目が終わった日のことでした。試験を終えて帰宅した自分を待っていたのは、ある留学業者から届いたパンフレット。心が引き寄せられるのを感じました。トレーナーを志そうと思ったのは野球部時代にさかのぼります。自分は人の身体を触わるのが得意だと感じ、その道を視野に入れていました。そして、気持ちが大きく揺れ動いたのは、神奈川大会開会式の日。そこには多くの記者に囲まれてインタビューを受ける松坂大輔選手の姿が。かたや開会式で行進すらできない自分。「彼より先にメジャーリーグに行く!!」松坂選手にインスパイアされた私の中に、揺るぎない目標が掲げられた瞬間でした。

実は日本の大学も受かっていたのですが、心は決まっていました。まずは両親に相談すると、中学生のときから寮生活だった自分を信頼してくれ、すんなりと受け入れてくれたのは有り難かったです。学校の先生は、突然の留学宣言に驚いていましたが(笑)。当時はパソコンを触ったこともなく、情報収集もままならない状況。留学業者でもらった教材で勉強を始めました。英語は全科目の中でも苦手でしたが、目標のトレーナーになるためには英語なんかでつまずいていられない、という気持ちでいっぱいでした。


渡米後に襲った不調を乗り越えて

At卒業後の5月に渡米し、まずは語学学校に入りました。おいしくないと言われていた食事は、実際食べてみると意外とおいしい。ガンガン食べていたところ、渡米2週間でなんと胃潰瘍に。短期間でここまで胃を悪くするなんて、一体どれだけたくさん食べたのでしょう!?しかし今思うと、アメリカの地に立ったものの右も左もわからない状態で、ストレスを感じていたのだと思います。大量に食べていたのも、きっとストレスからだったのでしょう。ただ、決して帰りたいとは思わなかったですし、留学中1度もホームシックにかかったことはありません。トレーナーになることしか考えていなかったので、「帰る」という選択肢は存在しなかったのです。とにかく必死でしたが、野球部の練習に比べればそれよりきついものはない、何でも乗り越えられると思いが支えとなっていました。

トレーナーになるために有効だった英語勉強法

Photo3ヶ月の語学学校を経て、4年制大学へ入学。入学に必要なTOEFLの点数をクリアするために必死で勉強をしました。入学後は、少しはわかりやすいだろうと日本史の授業をとりましたが、正直、授業の内容は理解できず……。先生が「エンペラーが××△△※※」と言うと、生徒からどっと笑いが起きるのですが、自分にはさっぱりわからず悔しい思いをしたものです。トレーナーに近づくための勉強がしたいのに、一般科目も勉強しなくてはならないのがもどかしくて仕方ありませんでした。

私は英語の勉強法として、単語帳はあまり意味をなさないと思っています。では、どのように英語を習得したかというと、聴覚障害を持つ方が言葉のトレーニングをするためのクリニックに通わせてもらいました。そこで発音やスラングをなおしてもらい、通用する英語を身につけることができました。トレーナーは高いコミュニケーション力が必要とされるため、話せるということが何よりも大切なのではないでしょうか。

「人」という財産に恵まれていた留学時代

Uf留学中、本当に悔しい思いをしたのも、やはりコミュニケーションに関することでした。フットボール選手たちが使う電動飲水器のバッテリーを、トレーニング室へ取りに行ったときのことです。そこにいた人たちに「バッテリー」「バッテリー」と伝えてもまったく通じない。15回以上言ってようやく通じたのですが「ああ!違うよー!」と相手は大笑い。「バッテリーはこうだよ」と言わんばかりにゆっくり「ba--tte---ry」と言われたときは腹立たしく、涙が出るほど悔しかったのを覚えています。しかしこの出来事を機に、よりいっそう英語をしっかりと身につけなくてはいけないという気持ちになりました。

せっかく海外に来ているのだから日本人とは付き合わない、というような意見もありますが、私は日本人との出会いも大切だと思っています。学部で同期だった日本人とは、トレーニング室では英語で会話をするというルールを決めて、とてもよい関係が築けましたし、語学学校の仲間とオリエンテーリング部を作って活動していたのですが、そこで出会った日本人女性はのちに妻となったのですから、とてもよい出会いだったと思います。こうして仲間、先生、妻、本当によい人たちに囲まれていた留学時代。よかったことはたくさんあるのですが、大切な人たちがそばにいるという環境に恵まれたことが最高だったと思います。高校時代は野球が上手か下手で人間の価値が決まるような環境の中、言いたいことも言えない自分がいましたが、アメリカでの留学生活で本来の自分を取り戻すことができたのです。

あの日誓った夢が叶った時

Uf_3大学卒業後はやるだけのことはやりたいと、フロリダの大学院へ進むことを決めました。学校を選んだ理由は、ブルーとオレンジのスクールカラーに惹かれて(笑)。しかし、ここでその後の人生を変える出会いがあったのですから運命だったのかもしれません。その出会いとは、卒業間近にテキサスレンジャースのスプリングトレーニングでインターンをしたときのこと。チームドクターに就任した先生が、テキサスに来る直前までいたのがフロリダだったのです。自分がインターンのための書類を出していることを伝えると、先生が現場に話を通してくれることに。結果、近隣の高校に配属が決まりました。実際インターンが始まると、高校生は誰がトレーナーになろうとも、素直にはならず、そこを一人でハンドリングしていくためには、自分で考えて行動していくということが求められました。コミュニケーション力がつき、実績ができたのはもちろんのこと、どこに行ってもやっていける自信がつきました。

大学院卒業が見えてきたある日、以前より知り合いだったレンジャースのヘッドトレーナーから「インターンに来るか?」「卒業したらテキサスへ来いよ」とのお誘いを受けました。このとき、松坂選手が渡米してくる1年前。あの日神奈川大会の開会式で誓った『彼より早くメジャーリーグに』という目標と夢が達成されたのです!

メジャーリーグのトレーナーに求められること

2004_2メジャーリーグにはトレーナーとして世界で一番腕が立つ人がいるのかと思われがちですが、実はそうではありません。何がすごいかというと、ずばりコミュニケーション力。選手とGMの間に立って話ができる人が求められるのです。「ある選手が故障したから別の選手を獲るためにはいくら必要」ということも的確に判断しなくてはいけない。一生懸命勉強して技術をつければいいというものではない、ということを実感しました。

インターンは1年。終わってからはクリニックに残り、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーに就くことになりました。松坂選手の渡米時、私は関係者として出迎える側。先にアメリカでやっていた者として、ちょっとした優越感を持たずにはいられませんでした。

私の心に深く響いた言葉

2006_2妻がニューヨークの大学院に通っていたため、ずっと離れて暮らしていました。夫婦としてそろそろ一緒に暮らしたほうがいいということになり、自分がニューヨークへ移り、さらにテキサスへも移りました。両方合わせて5年ほどクリニックで勤務。ビザが切れる頃、日本でいくつかお声をかけてもらっていたこともあり、帰国も視野に入れていました。しかし、突然その話がなかったことに。ビザはまもなく切れるし、さあどうしようかという状況に陥っていました。

思い切ってコンディショニングコーチをしている大学院の先輩に相談を持ちかけたところ、「アメリカに残る気はあるのか?」と親身になって受け入れてくれました。アドバイスどおりに動いた結果、MLBアリゾナ・ダイアモンドバックスからトレーナーとしてのオファーが!就任後は、新化し続ける環境の中で、とにかく学び続けなければならないと改めて感じました。そんな私の心に響いた言葉があります。

『エゴは捨てろ』

エゴがない人はいません。そこで認めつつどうしていくかということが大事。皆で仕事をうまくやっていくというような、単純なものではありませんでした。

これから留学をしようとしている人へ

Photo_2そのままアメリカで働き続けることもできたのですが、帰国を決めたのは家族という形を大切にしたかったから。日本で仕事をみつけた妻を、プロフェッショナルとして活躍できるように応援したい。やはり、家族はそばにいることが大切だと思います。

これから留学をしようとしている人に伝えたいのは、留学は目標を持ってするべきだということ。トレーナーになりたいと思ったのなら、まずどのようなトレーナーになりたいかを描くのです。そして達成するためには留学しなければいけないのかどうかを考える。「何もわからないけど行けば何とかなる」では、成功は難しいでしょう。とにかく自分と向き合うことが大事です。

私のほうは、今後日本のトレーナーのシステムを変えたいと考えています。優秀なトレーナーはたくさんいるのに、今は活躍する場が少ない。職業として活躍できる場を増やすことが目標です。また、アメリカで暮らして感じたのは、日本人は自己肯定感が低いということ。野球ができなくなったら自分終わったなと思ってしまいがちなんです。でも、野球はできないけど違うことはできる。セミナーなどを通じて、自分を肯定することへの理解を深める活動していきたいと思っています。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年2月24日 (水)

Vol.17 トレーナー留学:大久保 研介さん

Wbc_6_2豊橋南高→アリゾナ州立大

高校時代にメジャーリーガーのコンディショニングトレーニングに興味を抱き卒業後に渡米。スポーツ名門校・アリゾナ州立大学に入学し最先端のトレーニング理論を学ぶ。卒業後は日本の学校で鍼灸の資格を取得したのち、台湾プロ野球チームのトレーナーに就任しプロトレーナーとしてのキャリアを開始。チームでの活躍が評価され、日本人としては初となるWBC台湾代表チームのトレーナーに任命された。2015年からは中日ドラゴンズなどで活躍したチェン・ウェイン投手(現MLBマーリンズ)の専属トレーナーとして活躍中。

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アメリカではトレーナー、日本では鍼、それぞれの勉強と資格取得。そして、台湾プロ野球チームに就いたのち、メジャーリーガーの専属トレーナーとなった大久保研介さん。「これだ」と決めたら前進あるのみ。1つの台湾プロ野球チームを変えたと言っても過言ではない、貴重なお話しをお聞きしました。
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原点は身体への思い

アメリカという場所に気持ちが向いたのは、小学生の頃でした。当時、自分がアメリカで勉強や仕事をすることになるとは思ってもいませんでしたが、テレビで放送され始めたメジャーリーグの試合を観て、そのダイナミックさに心惹かれたことを覚えています。その後、中学、高校と野球を続け「うまくなるにはどうすればよいか」と、常に考えていたものの、チームにはトレーナーがおらず、相談はできません。部活が終ったあと、スポーツジムに通っていましたが、ここでも専門的に教えてくれるところまではいかず、自分で本を買って勉強をしていました。日本ではひたすら走ることがトレーニングのようになっていますが、ほかにもトレーニングの方法はあるのでないかと考え、専門的にトレーナーの勉強がしたいと思うようになったのです。情報収集をすると、スポーツについて学ぶには、アメリカが最適だということがわかりました。仮に、ロシアがこの分野に関して進んでいたのであれば、迷わずロシアへ行っていたと思います。

寮と図書館を往復する日々

Photo高校卒業後に渡米。アスレチックトレーナーの資格が取れる大学を選んだのですが、なんと、入学した年に認定校ではなくなってしまうという、予期せぬ出来事が。入学後半年で転学を余儀なくされてしまったのです。次は、規模が大きくスポーツ生理学が有名なアリゾナ州立大学へ入学しました。アリゾナ州立大学は、野球だけではなく、アメリカンフットボール、アイスホッケー、バスケットボールなど、主な大学スポーツが強いということも選んだ理由のひとつです。奨学金をもらい、希望どおり入学できたものの、やはりアメリカで名の通った大学。最初の試験で初めてのBを取ってしまいました。「うかうかしていられないぞ」と覚悟を決め、そこからは家と図書館を往復する日々。授業は、先生がパソコンを使ってどんどん進めていくため、予習をしっかりし、授業前には全部覚えるつもりでのぞんでいました。しかし、それでやっと6~7割わかる程度。その頃の生活は、始業前に2時間図書館で勉強し、次の授業の合間にも図書館、さらに放課後も図書館。とにかく、授業と寝る時間以外は図書館にいるような毎日でした。教科書の内容が頭に入っており、見なくても何ページに何が載っているかがわかっていたほどです。こうして、厳しい評価の中、なんとかギリギリで生き残ることができました。

進むべき道が開けた時

3アリゾナの夏は暑く、体調管理が難しかったです。油断をすると熱中症になりかねない。私自身は、食生活の乱れから湿疹ができてしまったこともありました。こうして慣れない土地で孤軍奮闘するうちに、なんとなく将来が見えてきてもいました。そんな中、今後の進路を決める転機が訪れたのです。全米から選手を大勢集めて試合をする、メジャ-リーグのショーケースを受けることになりました。高校の部活を引退してから本格的に野球をしていなかったので、まずは身体づくりからしなくてはいけません。思うように動かせない部分があるのを痛感していたところ、日本から来たスタッフメンバーの中に、鍼の資格を持っている方がおり、施術をしてもらいました。そうするとびっくりするほどよく効き、一発で治ったのです。この技術はすごい!目からうろこでした。鍼とコンディショニングを融合させれば、ケガのない身体がつくれるのではないか。卒業後は、日本に戻って鍼の勉強をしよう。はっきりと進むべき道が決まりました。帰国後は、アルバイトをしながら学費を稼ぎ、3年間かけて鍼の資格を取得しました。よく「アメリカの大学を卒業したのに、日本でさらに3年もかけて新たな勉強をするなんて大変だったでしょう」と言われるのですが、自分の力を試せると思うと勉強はおもしろく、大変だとは思いませんでした。技術があれば、きっと世界で勝負ができる。アメリカで成功したければ、アメリカ人と同じスキルを持っていてもダメ。プラスαが必要。このような思いが私を奮い立たせてくれました。

台湾プロ野球チームのトレーナーに就任

530932_118478824979202_412899926_n鍼の資格を取得後、最初につかせていただいたのは、プロゴルファーの方でした。常々プロの選手のトレーナーになりたいと思っていたので、目標の一つを達成することができました。自分が学んできたことをそのまま適用するのではなく、選手と話し合い、状態や希望に合わせて進めていきました。こうしてプロゴルファーのトレーナーとして1年が過ぎたころ、大きな転機が訪れました。台湾プロ野球チームから声が掛かり、トレーナーとして就くことになったのです。実際、チームに入ってみると、トレーニングの方法が日本と似ていました。例えば、ひたすら走る、キャンプが長いなどです。そして、私が就いた当初、ケガ人が多いことに驚きました。痛かったら痛み止めを飲めばいい、身体がかたくなるからストレッチはしない、というような少々偏った考えをしている選手もいました。これではせっかく身体を鍛えたり練習をしたりしても、ベストな状態でパフォーマンスができていない。まずは、全員が同じメニューをすることをやめよう。選手一人ひとりに合わせたメニューを考えるようにしました。具体的な治療法を伝えることで、選手たちの考え方も柔軟になっていきました。選手一人ひとりとのコミュニケーションを大切にし、医者、トレーナー、選手の連携がきちんと取れるようシステムを整えました。その結果、やりやすくなったと監督や選手からも評価され、WBCの台湾チームのトレーナーとして呼んでもらえることになりました。最初は自分のチームの選手を診ていたのですが、要請があり、ほかのチームの選手も診るようになりました。2009年のWBCアジア予選、東京ドームで行われた台湾と日本の伝説の試合時、私は台湾側にいたのです。これも不思議な縁ですね。

台湾出身メジャーリーガーの専属トレーナーとして

2015年より、台湾出身で、元中日ドランゴンズ、現在メジャーリーグのマーリンズでプレーをしているチェン投手専属のトレーナーをしています。チェン投手がトレーナーを探していることを聞き、テストを受けて採用されました。個人のトレーナーなので、チームに帯同できるときばかりではありません。ホテルに行ったり自宅に行ったり臨機応変に対応をしています。2015年のシーズン、チェン投手は11勝をあげ、防御率もよく、チームに貢献しました。トレーナーとして役に立てているのなら、本当に嬉しい限りです。

日米台湾の野球やトレーニング法を経験して

579299_172332392927178_806447764_n日米台湾の野球を見て、アメリカはコーチがあまり干渉をしないということに大きな違いがあると感じました。日本は選手主体というより、監督やコーチがいろいろなことを決めているように思います。また、日本や台湾は走ることが多いですが、アメリカはウォーミングアップにかける時間や内容が違います。選手たちは、自分で身体のことをきちんと考えているのです。アメリカはトレーニングそのものが変わってきています。以前はウエイトトレーニング中心でしたが、今はシステム化が進んでいます。というのは、いつなぜこれをするのか、理由がはっきりとしているのです。さらに、そこに栄養に関することも加わります。そして何よりアメリカのよい点は、プロとアマの壁がないこと。私がインターンをしていたジムでは、小学生からトレーニングをしていましたが、同じジムをプロの選手も利用していたので、間近に憧れの選手を見ることができていました。このような環境の中、子どもたちは夢を持って、トレーニングやプレーをすることができるのです。

海外を目指す人に伝えたいこと

Img_1769_3これから海外を目指す選手に伝えたいのは、年齢はただの数字だということです。もうこんな歳だからとか、まだ若すぎるから、ということは考えないでほしい。イギリスの政治家で首相も務めたスタンリー・ボールドウィンという人のこんな言葉があります。「志を立てるのに遅すぎることはない」。自分が行こうと思ったときが行くべきときなのです。自分の中でできない理由を作ってしまうことほど、もったいないことはありません。何事も最初の一歩がなければ二歩目はない。アクションを起こすのみです。自分が歩く道は自分でつくるつもりで、飛び込んでいってください。たとえ言葉が通じなくても、熱意があれば思いは通じるものです。身体に関することは、常に変化していきます。私自身も日々、勉強していかなくてはいけないと思っています。自分自身のアップデートとも言えますね。今度は、アメリカのスポーツ医学に特化した鍼の資格取得を目指します。アメリカのチームは、まだ鍼の施術をしているところは少ないので、もっと広めていきたいと考えています。私が初めて鍼をしてもらったときに受けた衝撃を、できるだけ多くの選手に味わってもらいたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2015年6月26日 (金)

Vol.15 トレーナー留学:一原 克裕さん

310668_2510166719283_391225983_n_2日大習志野高→早稲田大→ハワイ大学マノア校→ブリッジウォーター州立大学大学院→MLBシアトル・マリナーズ マイナーリーグアスレティックトレーナー

高校時代はエースでキャプテンとしてチームを牽引。早稲田大学在学中は、同校アメフト部で学生トレーナーとして活躍。ブリッジウォーター州立大学在学時に、MLBマリナーズをはじめNFLやMLS球団で学生インターンを経験し、卒業後はMLBマリナーズのマイナー球団にてアスレティックトレーナーとして若手選手の育成に従事。帰国後はパーソナルトレーナーとして活躍する傍ら、NPOスポーツセーフティージャパンに所属しスポーツ現場の安全性と環境整備の普及に努めている。2013WBCでは中国代表チームのトレーナーとしても活躍した。

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学生トレーナーとして参加したフットボールの試合。アメリカチームの対応を見て、トレーナーとしての心が揺さぶられた一原克裕さん。アメリカに渡り、決して平坦ではない道を歩き続け先に、見つけたものがあります。そんな一原さんの激動の7年間を振り返っていただきました。
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野球選手からトレーナーへ、転身を決めた日

Unnamed高校時代、キャプテンとして何とか毎日プレーをしてはいるものの、腰と首を痛め、大学で野球を続けるのは難しいと考えていました。自分自身が怪我をし、地元の接骨院で筑波大出身のトレーナーさんに身体を診てもらっていたこともあり、トレーナーという仕事に少し興味を持っていました。進学にあたり「トレーナーの勉強をするのもいいな」と思い始めていた頃、ある有名なトレーナーさんの存在を知り、「自分もトレーナーになりたい」という気持ちが強くなったのです。その方が教授をしている筑波大へ進もうと、2度受験に挑戦しましたが、残念ながら叶わず、早稲田大への進学を決めました。ここから、私のトレーナー人生が始まったのです。

学生アスレティックトレーナーとして踏み出した大学時代

Unnamed_1早稲田大学では、硬式野球部でのトレーナー活動を熱望していました。しかし、様々な異なる競技の学生トレーナーの活動を見学させてもらう中で、自分の中のアスレティックトレーナー像に一番近かったのはアメリカンフットボール部だと感じ、トレーナーとして入部しました。入部後に知ったのですが、日本で最初に米国公認アスレティックトレーナー(ATC)の資格を取られた鹿倉二郎氏がヘッドアスレティックトレーナーであり、メディカル部門はとても充実したスタッフが揃っていたのです。学生トレーナーもアスレティックトレーナーとストレングストレーナーがそれぞれ設けられ、日々現場で実践を通して学べる環境に身を置くことができました。こうして大学4年間は、日本一を目指しアメフトに大きく関わることになったのです。

学生トレーナーから職業としてのトレーナーへ

大学1年の時、アメリカ・アリゾナで行われたトレーナー研修に参加しました。そこで、アメリカのスポーツを直に見ることができたのはもちろん、職業としてのトレーナーについてよく知ることができました。特に、現地で働いている日本人トレーナーの姿を見ることができたのは、大きかったです。ただ、自分が同じようにアメリカでアスレティックトレーナーをするということは、まだ想像がついておらず、「大学の4年間、アメフト部で学生トレーナーとして全うしよう。その上で仕事にするかどうか考えよう」と心に決めました。そして、4年間やり通した結果「仕事にしたい」と、決意が固まったのです。

私の心をアメリカへ向わせた出来事

Unアスレティックトレーナーを仕事にしようと決意をしたのですが、この時点で、アメリカへの憧れや米国公認アスレティックトレーナーになるという気持ちはありませんでした。しかし、そんな私の心がアメリカへ向うきっかけとなった出来事があったのです。2008年に行われたU19日米対抗戦が日本で行われ、私はアメリカサイドに学生トレーナーのリーダーとして入りました。英語は話せないので、必死で行動する中、試合終了間際に選手が脳しんとうを起こし意識を失って動かなくなりました。アメリカチームのアスレティックトレーナーとヘッドコーチ、そして私は急いで選手の元に駆けつけました。これまで大学アメフト部の4年間現場で学んできたものの、頚椎固定をしてスパインボードに乗せて固定し搬送するほどの怪我に直面するのは自分にとって初めてのシチュエーション。出来るだけサポート役として責任を全うしようとしていましたが、アメリカ人のアスレティックトレーナーとヘッドコーチが迅速に対応し、選手を和ませながら身体のチェックをしていく。そして、レフリーも選手の異変を見逃さないとっさの判断をする。もう、それは完璧だと感じました。アメリカのチームは、ここまで迅速で素晴らしい対応ができるのかと、心が震えました。そして「目指すところはここだ!」と思ったのです。「アメリカで学ぶべきだ。アメリカに行こう!」。この日を境に、人生が動き出しました。

ハワイ大学を選んだ理由

Unnamed_2半年間、日本で英語の勉強をし、大学卒業後の7月にハワイへ渡りました。留学先としてハワイ大学を選んだのには、理由があります。渡米前に、高校のラクビー部で臨時トレーナーをしたのですが、怪我をした選手をケアしたり、段階的に競技復帰させる仕組みがまったくありませんでした。それを見て、仕組みが整っておらず手が届いていない場所を自分の手で変えていきたい、と思うようになったのです。その頃、ハワイ州が条例で全ての公立高校にアスレティックトレーナーを雇い、配置している歴史を知り、なぜ条例化が可能になり、誰が動いたのか、全てを知りたくなりました。

ハワイに渡ってからは、大学で大学院へ進学するために必要な単位をとることにし、語学学校には通わず、学校の授業で生きた英語を学ぶようにしました。そして、ここでも学生トレーナーとして、アメフト部で活動しました。本場での活動は、とても楽しいと感じるものの、まだ英語がなかなか上手く話せなかったので、「今日もひと言も話せなかったな……」と、1日が終わってしまうこともあり、日によって充実感に波がありました。ただ、話せなかった分、テーピングは誰よりもきれいに巻くことができ、技術が選手とのコミュニケーションのきっかけになりました。

トラブルを乗り越えて

230773_658502902978_70690_nこうして奮闘する中、とんでもないことが起こりました。大学院のプログラムが消滅してしまうというのです。「卒業はできる」と言われたものの、この先どうなるかわからない。ハワイで取った単位を認めてくれる学校を探した結果、マサチューセッツ州にあるブリッジウォーター州立大学の大学院に受け入れてもらえました。せっかく入った大学院のプログラムがなくなってしまうというまさかの出来事。(現在、プログラムは復活しています)。リサーチや手続きは、たとえ日本にいてさえも大変なことなのに、英語もまだ上手く喋れない段階で転校とアメリカ本土への引越しは正直不安が大きかったです。ただ、ハワイ大学のクラスメートの半分が一緒だったのは、精神的に救われたなと思います。ブリッジウォーター州立大大学院へ転校を決め、アメリカ本土に渡りました。ブリッジウォーターは、ボストン近郊の田舎町でのんびりした場所。落ち着いて勉強をすることができました。

粘り勝ちで開いたインターン参加への道

Unnamed_34か月間ある夏休みには、最初の2か月はプロアメフトチーム(NFL)で、後半の2か月はプロサッカーチーム(MLS)でインターンをしました。サッカーチームでは、日本人アスレティックトレーナーの下、プロチームで働く事とはどういうことなのか、これからアスレティックトレーナーを職業とする中で何が大切なのかを学びました。ただ、NFLサマーインターン参加の採用をもらうまでは、かなり苦労をしました。書類をチームへ送り連絡を待っている時、その後採用されるNFLチームでイヤーインターンをしていた先輩に誘われ、チームのパーティに参加する機会がありました。そして、そこには全てのメディカルスタッフが来ていたのです。

「送った書類は見て頂けましたか?ぜひ、お願いします!」と、ヘッドトレーナーに積極的に話し掛けて直談判。その場では「わかった」と言ってくれたのですが、2か月間音沙汰なし。「せっかく会うところまでいったのに、このまま引き下がれない」と思い、メールと電話をし続けました。すると、そのヘッドトレーナーが私の大学院へ講義に来ることがあり、「また、会ったな!」と挨拶を交わしました。大学院の教授も私のことを薦めてくれ「よし、わかった!」と言ってくれたので、今度こそは大丈夫だろうと思いました。しかし、またまた連絡は来ません。どうしたものかと思っていると、ようやく夏のキャンプの1週間前に、採用決定。全チームから断わられていましたが、最後まであきらめずに動いた結果の粘り勝ちでした。

インターンを経てつかんだ正式採用

Unnamed_4NFLでのインターンは想像以上にハードで、この時が人生で1番きついと感じました。しかし,NFLの何万人もの観客のもとで行うゲームは圧巻。鳥肌の立つような感覚が忘れられず、やりがいを感じました。そして2011年スプリングトレーニングでは、イチロー選手のいるマリナーズで2週間のインターンを行いました。すぐそばでイチロー選手を見ることができたのは、トレーナーとしても非常に勉強になったと思います。卒業後は、アメリカに残ってもっと学びたいという気持ちが強く、がむしゃらに就職活動をしました。しかし、書類を80通ほど送り、面接まで行けたのは4回。電話で話すときには、英語の壁にぶつかる。「もう、無理かな」と思い始めた頃、プロアメフト独立リーグのチームから「採用」の連絡が入ったのです。「1週間後に来られるなら、採用するよ」とのこと。急でしたが「仕事があるならどこにでも行く」という強い気持ちで、身体一つボストンからカリフォルニアはサクラメントへ飛びました。状況も生易しいものではなく、トレーナー3人で60人の選手を診て、雑用や事務も含めてすべてを行わなければなりません。始まる前に早く行って、準備をして整える。どうすれば早く進めることができるのか、ここでは、早稲田大時代の経験が役に立ちました。そして、チーム帯同時にはどう動けばよいか、何を持っていけばいいか、インターンで学んだことが活かされました。仕事は大変でしたが、これまでやってきたことが確実に実を結んでいく毎日でした。

再び、マリナーズへ

Dscn6291thumbnail2_2プロアメフト独立リーグのチームで働いたのち、以前インターンをしていたマリナーズに採用されました。3シーズンの間、従事したのですが、徐々に役割が増えていき、インターンの時にはできなかった仕事もフルタイムで働く中でできるようになりました。2年目からは、組織の一員として動いていることを実感したものです。そんな中、ここでも突然の出来事は起きるものですね。2年目、3年目共にシーズン中盤で担当チームが変わり、結果としてシングルA, トリプルAにも帯同し、シーズンを戦う経験を積むことが出来ました。しかし、この時の私はもう、こういった急な出来事にも動じなくなっていました。これまで、大学院のプログラムが変わって転校、1週間後にはチームに合流など、予期せぬことをこなしてきたため、急なことにも対処できる力がついていたのだと思います。

アメリカ生活を振り返って

Unnamed_5アメリカにいた7年間を振り返ると、「今」を生きることに精一杯だったなと感じます。時には流れに任せ、その時その時をクリアするために過ごしてきた、と言うべきでしょうか。「もっとアグレッシブにすればよかったな」と、思うこともあります。私はもともと人見知りをするほうで、人付き合いも決してうまくはありませんでした。アメリカでは会話のテンポについていけず、苦労しました。また、どこか日本人的な部分を捨てきれずにいる自分にも、もどかしさを感じていました。しかし、アメリカ生活を経て、物事に対してのハードルはずいぶん下がったと思います。たとえば、まったく知らない人の中に1人入れられても、「郷に入っては郷に従え」を実践し、協調していく力がつきました。今は、新しい場所に行ったり初めての人に会ったりすることにも、すっかり抵抗がなくなっています。

これから海外へ留学しようとしている皆さんへ

Unnamed_6とにかくやりたいことがあれば、迷わずどんどん進んでください。どの道に進むのが正解なのかを悩むよりも、自分がその時点で選んだ道を自分の力で正解にする、そんな心持ちで突き進んでください。英語はきれいに完璧に話す必要はない。あくまでコミュニケーションの手段です。そのかわり、その国の文化をすべて受け入れるくらいの気持ちで臨んでほしいです。海外留学は、多くの素敵な出会いがあります。私も、ハワイやアメリカ本土至るところに知り合いができたことを、本当に嬉しく思っていますし、また再会できる日を楽しみにしています。
今後は、NPO法人スポーツセーフティージャパンとして、アメリカで経験し学んだ全てを糧にして、留学当初の目標でもあった日本で子供たちが安全に楽しくスポーツができる環境作りを目指します。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2015年1月 6日 (火)

Vol.14 トレーナー留学:高橋 雄介さん

Top山形・寒河江高 → テキサス州立大学サンマルコス校 → サンノゼ州立大学大学院 → MLBロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム

高校時代は、外野手として活躍。卒業後、米国テキサス州立大学にスポーツトレーナー留学。大学在学中は硬式野球部のアシスタントトレーナーとして活躍し、NATA認定アスレティックトレーナー取得。大学卒業後の09年、MLBフィラデルフィアフィリーズ傘下のマイナーチームでトレーナーのインターンシップを経験。その後、サンノゼ州立大学大学院に進学し同校硬式野球部のヘッドトレーナーを務める。同校でキネシオロジー学部修士号を取得し、14年よりMLBロサンゼルス・エンゼルスのアスレティックトレーナーに就任。マイナーリーグの若手選手の育成に従事している。

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目標に向かって一生懸命進む道で巡り合った人たちとのつながりがもたらした、高橋雄介さんのサクセスストーリー。人との出会いや縁がどれだけ大切かを教えてくれる、素敵なお話をお聞きしました。
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アメリカ留学を決意するまで

中学生の早い段階で、漠然とアスレティックトレーナーになりたいと考えていました。その時は「プロ野球選手をケアをする人」というイメージだけを持っていたのですが、高校生の時にトレーナーに関する本を読むようになり、学ぶなら本場のアメリカがよいということはわかりました。ただ、自分が留学をしてアメリカで学び生活をしている姿は、まったく想像がつきませんでした。高校卒業後は日本の大学に進学をするつもりで受験をしましたが、敢え無く失敗。浪人生となったのですが、このまま勉強を続けていても本当に自分のやりたいことに結びつくのだろうかと、疑問を抱き始めたのです。この時は両親にも心配をかけてしまうほど思い悩んでいたと思います。そうして悩んだ末、出した答えは「アメリカへ留学をしよう」でした。高校の同級生がアメリカへ留学していたこともあり、情報を聞いたりアドバイスをもらったりしたのがとても大きく、迷っていいた私の背中を押してくれました。予備校を辞め、留学準備のために自宅で英語の勉強を開始。野球選手として、受験生としてやり残したことがあると感じていたので、その悔しさが自分を奮い立たせ、英語の勉強を頑張ることができました。

教授との会話が支えてくれた留学生活

3高校を卒業して約1年後の5月に渡米。大学へ進学する頃にはTOFELの点数は上がっていたのですが、やはりスピーキングに苦手意識がありました。大学へ入学して間もない頃はクラスメートと思うように話せず、話し相手はもっぱら教授でした。質問したり相談したりしたことに対して、教授はいつも親身に応えてくれました。たくさんの生徒がいる中で、真剣に向き合ってくれたことは、本当に有り難く感謝しています。おかげで時間が経つにつれ、入学当時からほぼメンバーが変わらないクラスメートとも打ち解けられるようになりました。お互いに助け合いながら勉強ができたことは、よい思い出です。ただ、まだ学校の勉強と活動に一杯で、長期休みに学校外でインターンをする余裕はありませんでした。2年が過ぎた頃、教授の勧めで応募した奨学金をもうらことができたのです。これまでの苦労が1つ報われた達成感を味わうことができ、そこから学校外の活動にも目が向くようになりました。

人生を変えた2週間のインターン

Kinesio_mlb_spring_training_inter_2まずは、MLBサンディエゴ・パドレスで2週間のインターンを経験することに。恵まれた自然、施設の充実、選手たちの人柄のよさに感動し、人生を変えたといっても過言ではありません。チームの皆が突然入ってきた私を歓迎してくれ、終わった後も「このままでは終わりたくない、何らかの形で続けたい」と強く思うようになりました。大学に戻ってからも野球の授業で、インターンで学んだことを紹介したりもしました。次の夏休みもインターンに参加しましたが、すべては最初のインターンがあったからこそつながったことであり、2回のインターンでメンタリティの基礎を学ぶことができました。

卒業前には、マイナーリーグのチームへ片っ端からコンタクトを取ったのですが、どこも定員いっぱいだと断れてしまい、進路が決まらないまま卒業。あきらめずに活動を続けようと思っていた矢先、一度断られていたMLBフィラデルフィアフィリーズ傘下のマイナーチームから「空きが出たから」と連絡がきたのです。渡りに船のような気持ちで面接を受けたところ、これまでのインターンの経験を買ってくれ、無事に採用となりました。チャンスはいつやってくるかわからないものです。

がむしゃらに進んだ先に見えた目標

1プロの世界に飛び込んだ最初の3か月は、ついていくのが精一杯。同期は大学院を卒業して経験もあったので、歴然とした差を感じずにはいられませんでした。自分はこれでいいのかと悩み、コーディネーターに相談をしたのですが、「心配しているということは大丈夫だ」と言ってくれ、心が軽くなりました。がむしゃらに頑張りながら1年が過ぎた頃、チームのほうから「今後はどうするつもり?」と声を掛けてもらいました。まだこのチームで学びたいことがたくさんあったので「ぜひ、継続させてほしい」と伝えると、もう1年契約をしてもらえることに。通常は単年契約で終わってしまうことが多い状況の中で、とても有り難いと思いました。1年で終わるのともう1年できるのでは、やはり大きな違いがありますから。

2年目はよりいっそう責任を感じながら仕事をしました。お金をもらってインターンをしているからには、会社やチームのことを考えなくてはならない。1年目では見えなかったことが2年目では見えてくるようになりました。また、インターンではなくフルタイムで働きたいという目標もでき、もっと一人でチームをさばけるトレーナーになりたいと思うようになりました。2年間のインターンが終わった時点で、自分はもうここにはいてはいけない、次の道に進むべきだと考え、大学院への進学を決意しました。正直、学生に戻ることは少し違和感があったのですが、30歳になるまでに自分の立ち位置と進む道を確立したいと思っていました。

一人でチームをさばくトレーナーを目指して

5結果、大学院に進んだのは正解だったと思います。在籍中は、もっと野球のトレーナーとして腕を磨きたいと考え、野球のトレーナーをリクエストし続けました。そんな姿を見たフィリーズのコーディネーターが、硬式野球部へ推薦をしてくれ、ようやくトレーナーとして就任することができたのです。一人でチームをさばく環境も与えられ、自分がやりたかったこと、目指していたことは「まさにこれだ」と実感しました。しかし、一人でさばく以上は、インターンでは経験できないチームのコーチや相手チームとのコミュニケーションなど、当然わからないことが出てきます。時にはフィリーズ時代のことを思い出したり、電話をかけて相談したり、大学院のスーパーバイザーに訊いたりし、試行錯誤しながら自分のできる範囲を広げていきました。

1年経った頃には、コーチからも認めてもらえるようになり少し落ち着いていたところ、2年目はなんとコーチ陣が一掃され総変わりに。新しいコーチたちは、トレーナーがいる環境に慣れておらず、私がやることに対し「過保護にするな」などと言うようになりました。このままではお互いに解りあえないままだと思い、監督に相談に行って話し合いを重ねると「チームのために必要なスタッフ」であることを理解ししてもらえるようになりました。また一から関係を築き上げていくのは大変でしたが、理解し合おうと努力することで、よりよい関係性ができるのだと感じました。2年目が終わる頃には、マイナーリーグのチームに正式採用されてもやっていけると、自分なりの自信がついていました。

再び巡り合った運命

大学院卒業後、OPT*を開始しましたが、一旦日本に帰るべきかどうかも迷っていました。大学院には日本人の教授がいたので進路について相談してみると、リサーチアシスタントのお話をもらいました。最初はピンとこなかたのですが、何事も勉強になるかもしれないと考え、引き受けることにしました。給料が発生しないので少し苦しいなと思いながらアシスタントをしていたところ、突然、とある短大から電話がかかってきたのです。3か月のパートタイムで働けるトレーナーを探しているとのこと。就職活動をしながらパートで働けるのは、本当に有り難い話でした。しかし、就職活動は意外と難航し、なかなか面接までこぎつけることがはできません。それでもチャンスが巡って来るのをあきらめずにいようと思っていたところ、3チームに空きが出たのとの情報を得たのです。「この3チームのどこかで採用してもらえなかったら、別の道も考えなければ」と決意し、必死の覚悟でのぞもうと履歴書を送りました。

6_4気持ちを新たに、ちょうどその頃心配をしてくれていた大学院のコーチに挨拶に行きました。これまでのいきさつを話したところ、履歴書を送った3チームの1つMLBロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムのアシスタントGMと友達だと言うのです。その場ですぐさまメールを打ち「彼の能力は間違いないから」と推薦をしてくれました。エンゼルスのマイナーチームでは、外国人のスタッフは雇わない方針だったのですが、コーチがメールをしてくれたおかげで面接を受けさせてもらえることになりました。「他にも面接をしている人がいるから」と言われていましたが、面接を受けて数日後になんと採用が決まったのです。
※OPT:Optional Practical Training(オプショナル・プラクティカル・トレーニング)の略で、アメリカの大学、短大、専門学校を卒業後、留学生が申請出来る実務研修期間。民局からの許可により、最大12ヶ月間、アメリカ国内で合法的に働ける制度。

10年越しの夢の実現

エンゼルスは就労ビザを出さないという会社のルールまで変えて、採用をしてくれました。自分では突破できないことを、周りの人のおかげで突破することができたのです。チームからは「自分の信じたことを好きなようにやってくれ」と言ってもらっています。やりたかったことが実現できている環境は、夢の中にいるみたいです。ここまで来るには10年かかりましたが、1歩1歩進んで来たのがよかったのだと思っています。時には進路が決まっていないという危機感もありましたが、何事も不平を言わず一生懸命やることだけは忘れずに取り組んで来た姿を、周りの人は見ていてくれたのではないでしょうか。

大きな目標を達成するために大切なこと

4_2私は、能力が高かったわけでも優秀だったわけでもありません。しかし、目標にたどり着けたのは、与えられた環境で真摯に誠実に取り組み続けたから。一生懸命頑張っている姿が周りの人の目に入り、「助けてやりたい」という気持ちになったのだと思います。一人では達成できない大きなことをやり遂げるには、他の人の助けや後押しが必要です。そこで「助けたいな」と思ってもらえる人間にならなくてはいけないと、私は思っています。

もがき苦しんでいる姿を見た人は、成功しているとは思わないかもしれません。しかし、周りの人が何と言おうと自分が決めたことに挑戦し、悔しい思いや嬉しい思いをした時点で成功なのではないかと思います。成功とは、のぼりつめた先にあるものではなく、もっと近くにあるものだと考えれば、きっと辛くてもあきらめずに進むことができるはずです。私は、毎日素晴らしい環境で仕事をしていることを嬉しく感じていますが、まだ自分のスキルに満足しているわけではありません。野球選手と同じで自分の現状に感謝はしても満足せず、もっと上を目指したいと思います。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2014年12月10日 (水)

Vol.12 トレーナー留学:武井 敦彦さん

Takeitop_2東京農大一高 → ネバダ大学ラスベガス校 → MLBアリゾナ・ダイヤモンドバックス → 横浜DeNAベイスターズ → Passion Sports Training代表

高校卒業後、ネバダ大学ラスベガス校へ留学。就学中にMLBテキサス・レンジャーズでインターンを務め、卒業後はMLBアリゾナ・ダイヤモンドバックスのマイナー球団にてアスレティックトレーナーを務め、最優秀トレーナー賞に選出される。帰国後は横浜DeNAベイスターズに入団し若手選手の育成に大きく貢献。2013年にPassion Sports Trainingを設立し、子供からプロアスリートまで幅広くパフォーマンス向上のサポートしている。


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何気なく観ていたスポーツ中継がきっかけとなり、日米プロ野球チームでアスレチックトレーナーになる夢を叶えた武井敦彦さん。前向きに突っ走ってきた留学時代の喜びと誇りを見出しながら従事したトレーナーとしてのお話をお聞きしました。
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留学を決意した日

Takei3進路で迷っていた高3時、テレビでNFLの試合中継を観ていました。途中、選手が怪我をしたのですが、全速力でその選手に駆け寄りケアをしている人がいたのです。その姿は凛々しくてかっこよく、一気に私の心を奪い「これだ!」とピンと来ました。すぐさま調べてみると、アスレチックトレーナーという職業で、資格を取るには本場であるアメリカへの留学が必須なのだとわかりました。それまで進路を決めるにあたって「留学」という選択肢は持っていませんでしたが、この日を境に決意。「スポーツ好きにはたまらない仕事だ」「大観衆の中で仕事ができるなんてやりがいがある」と、もはやアスレチックトレーナーになることしか考えてはいませんでした。NFLの中継が運命を変えたのです。

英語での生活とトレーナー研修ができる喜び

Takei1留学後は、もちろんすべての授業が英語です。不得意な理系科目、アメリカ史の授業は特に苦労をしました。そこで思いついたのが、きちんと勉強をしていそうなアメリカ人と友達になること(笑)。彼らと仲良くなって、わからないことを教えてもらうようにしました。大学には世界中から学生が集まっており、ルームシェアをしたり、ナイトクラブに飲みに行ったり、旅行をしたり、時には夜な夜な語り合ったり……。いつの間にか英語で会話をして生活している自分。アメリカできちんと生活ができているという実感がわいた時、心から幸せを感じることができました。

また、大好きなスポーツに囲まれて実習ができることにも喜びを感じました。授業は好きではありませんでしたが(笑)、毎日、午後の実習に行くのが楽しみで仕方ありませんでした。下積みの仕事も苦にならないほど、現場にいられる喜びと嬉しさが大きかったことを覚えています。

試行錯誤の毎日にやってきた転機

Takei4_2「プロか日本代表レベルでアスレチックトレーナーとして従事する」という目標を持って試行錯誤している中、ある転機がやってきました。それは、JBATS主催のMLBインターンプログラムへの応募から始まりました。履歴書や推薦書、小論文を提出し、選考を通過。テキサスレンジャースでの2週間のインターンを経験しました。終了後もせっかくできた縁をここで途切れさせるのはもったいないと思い、「インターン後も来てもよいか」と尋ねると「ウエルカム!」と快く歓迎してくれました。学校が休みになり時間ができるたびに顔を出してお手伝いをしていたのですが、ある日、トレーナーの方から「君を紹介したい」というお話をいただいのです。それはアリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーチームでアスレチックトレーナーとして正式に契約ができるというもの。もちろん、迷いはありませんでした。ついに掲げてきた目標を達成できた瞬間であり、新たなスタート地点に立った瞬間でもありました。

努力は実を結ぶ

Takei5ダイヤモンドバックスでは、チームで唯一のアジア人であったため、選手からいじられる恰好の的でした。それでもプロチームのトレーナーとして現場にいられることが、エネルギーの源となり頑張ることができました。そんな時、リーグ8チームのトレーナーが投票し合って選ぶ「ベストトレーナー賞」をいただくことになったのです。技術というよりも、相手チームとのコミュニケーションを大切するなど一生懸命さが買われたのではないかと思います。受賞後は、選手や周りの人たちからの見る目が変わり、よい信頼関係を築けるようになりました。社会人になるとアメリカ社会の厳しさも感じましたが、ダイヤモンドバックスでの2年間は、トレーナーとしての視点を学ぶことができた貴重な時間でした。

日米プロチームでトレーナーに従事

Takei2帰国後、レンジャース時代に知り合いになった方が横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の国際担当をしており、「外国人選手のケアもできるコンディショニングトレーナーを探している」というお話を頂きました。「チーム躍進のお手伝いができるのであれば是非」と、正式契約へとなりました。仕事をしていく上で、アメリカにはアメリカの、日本には日本のやり方があることを改めて感じました。例えば、アメリカではトレーナーの権限がより強く、監督であっても発言や治療方針に背くことはありません。一方、日本ではやはり上下関係があり、相談しつつ進めるというやり方が主流でした。日米両国のチームで仕事ができたことは、留学前からすれば夢のような話ですし、自分にとって大切なキャリアとなりました。

可能性は無限大

NFLの試合中継を観て留学を決めた時から夢への第一歩が始まったわけですが、トレーナー留学が「自分の可能性は無限」であることを教えてくれました。今の自分があるのは、留学時代にお世話になった方々、友人、そしてやる気のある人を積極的に受け入れてくれるアメリカという土壌のおかげです。これから留学を目指す方には、是非「自分が何をしたいのか」心の声を聞いてみてほしいと思います。行動を起こさないで指を加えて待っているだけでは、もったいないです。留学が決まれば、英語はもちろん、理数系の勉強に力をいれておくことをお勧めします。あと、スポーツ医学に関する本を読んでおくと、留学後にスムーズに移行しやすいでしょう。

私自身は、今後、よりいっそうトレーナーとして貢献できることを考えていきたいですね。将来的にはパーソナルジムを開いて、勝負の中にも家庭的なつながりのある場所をつくり、活躍できる場を提供していきたいと思っています。


【取材・文】金木有香
【取材協力】Passion Sports Training・ゴールドジム原宿東京
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2014年2月22日 (土)

Vol.11 トレーナー留学:山口 元紀さん

Yamaguchi01_4 高崎大付属高 → 日本大学 → テキサス工科大学院:健康科学センター → MLBタンパベイ・レイズ → MLBボストン・レッドソックス → Dr.トレーニング代表

日本大学卒業後、本場のスポーツ医学を学ぶ為、テキサス州の大学院へ留学。卒業後にMLBタンパベイ・レイズや、ボストン・レッドソックスでアスレティックトレーナーを務め、故障選手のリハビリやトレーニングに携わる。2012年に帰国し東京・恵比寿に「Dr.トレーニング」を設立。多くのプロ野球選手を始め、サッカー選手やゴルファー、歌手やファッションモデルなどのパーソナルトレーニングを担当。


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アメリカ南部・テキサス州の大学院に留学し「全米NATA認定アスレティックトレーナー(NATAーATC)」を取得した山口元紀さん。英語嫌い・英語力ゼロからMLBのトレーナーとなり、まさにアメリカンドリームを勝ち取った、力溢れるストーリーをお聞きしました。
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「自分」の基盤ができた小学生時代

Cimg4132 小学2年生の時、すでに野球をしていた兄の練習を見に行ったのが、野球を始めるきっかけとなりました。練習を見に行く時はまだ、チームに入るかどうかは決めていなかったのですが、監督は「明日からやるよな」とひと言。有無を言わさず、その翌日からチームに加入して、野球を始めていました。監督の指導はとても厳しく、バットでお尻を叩かれたことも数知れず(笑)。しかし、ただ厳しいだけではなく、時間をかけてでも最後までやるように教えられました。その教えとプロ野球選手への夢とが支えとなり、どんなに辛くても、一度始めたことは最後までやり抜こうと決めていました。「やるならとことんやる」という自分の基盤が、この時にできたのではないかと思います。

一度、野球と離れてみてわかったこと

中学、高校も硬式野球部に所属し、甲子園出場とプロ野球選手になる夢を追いかけていました。残念ながら、甲子園出場は果たせず、プロ野球選手になることも難しいと思い始めた頃、自分の中にあるのは「野球をやり切った感」でした。「これまでは野球のことしか考えてこなかった。大学では野球以外のことをやりたい」と思い、スポーツ医学を学びたいと思い進んだ日本大学では、これまでの時間を取り戻すかのように、友人たちと思う存分遊び、自由きままな毎日を過ごしていました。しかし、心から満足できないのです。何かやらなくてはいけないという思いに駆られていたものの、この時点では、留学もトレーナーを目指すことも考えてはいませんでした。英語は一番嫌いで苦手な科目だったので、自分とはあまり縁がないと思っているくらいでした(笑)。とにかく野球と離れてみてわかったことは、何も目標を持たずに過ごすのは、自分には向いていないということでした。

「今」に続く再スタート

Cimg4148「いつトレーナーになりたいと思ったのか」と、よく聞かれるのですが、実は「ここから」という明確な区切りはありません。ただ、高校時代に手を骨折した時、誰もケアをしてくれる人がおらず、独学でケアについて学んだのが頭に残っていました。それがきっかけだと言えばそうかもしれません。ある日、遊び中心の生活から抜け出したくて、高校時代からお世話になっているトレーナーを訪ねました 。すると「トレーナーに携わりたいと少しでも思っているなら、スポーツに携わっていたほうがいい。大学を卒業するまでは野球を続けなさい」と。自分もやはり野球がもう一度やりたいと思う気持ちもあり、大学の準硬式野球部に途中入部しました。さらに「英語は勉強しておけ」とアドバイスを受け、嫌々なりに英語の勉強をし始めたのが、大学2年生の時でした。

アメリカ留学を決めた理由

3890_608376641499_4877096_n_2 大学卒業後の進路を決めるに当たり、自分の中で、いくつかの思いが重なりました。まず、英語の勉強は続けていきたいということ。次に、トレーナーになるなら最高峰の資格を取りたいということ。さらに、日本を出て海外に行きたいということ。この3つが合致する道は「アメリカ留学」だったのです。行くと決めたからには英会話教室に通って準備をし、大学卒業後、すぐに渡米しました。まずは、大学付属の語学学校で英語力を強化し、大学院進学のための単位を取るために、四年制大学に2学期間通いました。そしてさあ、いよいよ大学院に進むための手続きをしようと思った時、予期せぬトラブルに見舞われたのです。それは、大学側による履修科目の申請ミス。つまり、大学院に進むために必要な単位が一つ抜けていた、と言うのです。日本では有り得ないことなのに、そこは、アメリカンスタイル。「ごめん!ごめん!」と軽いノリで謝られただけで終わってしまいました。こちらは人生かかっているのに、です。

自分を追い込み奮い立たせた留学生活

さて、どうしようかと思いましたが、別の大学院を探すしかありません。その後の1学期間は、大学院探しに費やしました。解剖学が学べて、さらに日本の大学ではできない検体の実習ができるという希望に合ったのが、テキサス工科大学院:健康科学センターでした。テキサス州はアメリカ本土の南部にあり、日本人はあまりいない場所なのですが、それも私にとっては、望むところでした。決して日本人と関わりたくないというわけではありません。ただ、日本人がいると、どうしても頼ったり甘えたりしてしまう。そんな環境を排除して、極限まで自分を追い込みたかったのです。そんな思いは、大学院生活がスタートすると、充分過ぎるほど叶えられました。ネィティブでも難しい内容の授業、毎日課される大量の課題。最も多い時には、3科目分の300ページ近くの資料を一晩で読破するという、気が遠くなりそうな課題もありました。日本人の自分が、言葉の壁にぶつかりながらクリアしていくためには、ネィティブが寝ている間に頑張るしかありません。栄養ドリンクを片手に、英語と格闘する毎日でした。しかし 「辞めよう」「日本に帰りたい」とは、一度も思いませんでした。覚悟を決めて来た留学です。辛いからと言って、簡単に日本に帰れば、人生が終わってしまうと思っていました。

待っているだけでは、何も始まらない

Seminar_07_28_11e1375866913478_2そのような怒涛の大学院生活を終え、無事に卒業式を迎えることになりました。卒業式ではきっと泣くだろうと思っていましたが、意外と涙は出ませんでした。その時すでに気持ちは、アリメカに残ってトレーナーの仕事をするという次の目標に向かっていたからです。その時は野球のことしか頭になかったので、メジャーリーグの球団でトレーナーをしようと思ったのです。もちろん簡単には求人なんてありません。電話をかければ断られるだろうと思っていたので、アポも伝(つて)もなしに、球団のキャンプ地に飛び込みで、売り込みに行ったのです。反応は様々でしたが、タンパベイレイズとニューヨークヤンキースの2チームからオファーをもらい、実務の経験をより多くさせてくれるタンパベイレイズを選びました。1 年半が過ぎた頃、別のシステムも見てみたいという思いが強くなりました。そんな時、ボストンレッドソックスがトレーナーを募集していることを知り、迷わず応募。面接を受けて、1週間後に合格の連絡があった時は、本当に嬉しかったです。再生工場と呼ばれているレッドソックスは、リハビリのシステムがしっかりと確立しており、私が今行っているものも、その時のシステムが基盤となっています。

留学とは覚悟を決めること

もし、今、留学を考えているなら、人に相談して決めようという思いは捨ててほしいと思います。厳しいことを言うようですが、相談するくらいなら、やらないほうがよいかもしれません。海外留学は、日本の生活では考えられないようなことが起こります。そのような生活の中で、傷つき落ち込むこともあるでしょう。人から勧められたからではなく、自分で悩んで考えた末に出した答えでなければ、きっと、100%の力を出し切ることは難しいと思うのです。結局、惰性で留学生活を送ってしまうか、あきらめて帰国することになってしまいかねません。留学とは「覚悟を決めること」なのですから。

目標に達した後、さらに続く夢と新たな目標

Flow06レッドソックスでは、多くのことを学び、吸収し、トレーナーとしても認めてもらえるようになりました。しかし、それはトレーナーとしての幸せであり、自分自身の幸せではないと感じていました。もっと自分の力を試したい、自分の力で道を切り開きたいという思いから、起業をしようと決意したのです。2011年の帰国後は、いちトレーナーとして、プロアスリートや多くの芸能人のパーソナルトレーニングを担当。2013年6月、恵比寿に「Dr.トレーニング」を開業しました。また、2014年2月には、自分を育ててくれた地元・群馬県高崎市と野球に恩返しがしたいと思いベストパフォーマンスジム・鍼灸整骨院 in 高崎ペガサス」をオープンしました 2014年も、さらなる目標に向けて進もうと思っています。そして今後は、アメリカでトレーナーについて学んでみたいという学生が増えてほしいですね。


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年11月26日 (月)

Vol.8 トレーナー留学:弘田 雄士さん

E6725b6f5600c9eaf809b90c2bf84c342_2 日大鶴ケ丘高校 → 日本大学 → 米トレド大学 → MLBデトロイトタイガース マイナー球団 → 千葉ロッテマリーンズ → TACHIRYUコンディショニングジム

日本大学時代にストレングス&コンディショニングの専門家を目指し留学を決意。卒業後にアメリカの4年制大学に入学し、MLBデトロイト・タイガースマイナー球団(AAA)でインターンを経験。帰国後は千葉ロッテマリーンズのコンディショニング・コーディネーターとして2009年シーズンまで主にファーム担当として活躍する。現在は立花龍司氏が監修するTACHIRYUコンディショニングジムで子どもからプロ選手まで幅広くサポートしている。

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当時、日本人では珍しくアメリカで経験を積み、千葉ロッテマリーンズのコンディショニング・コーディネーターとしてチームを支えた弘田さん。夢を叶えるためには何が必要なのか、高い競争率を勝ち抜いて、幾度と夢をつかんできた弘田さんの経験と信念を語って頂きました。
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野球選手ではない新たな道

幼い頃から野球漬けだった私が、野球選手ではない道を進み始めたのは、大学3年生の時でした。コンディショニングコーチを目指すことを決断。この決断に至るまでの私は、このまま野球を続けていてもレギュラーになることが難しいと感じながら、野球選手への未練を断ち切れずにいました。そんな時、ストレングス&コンディショニングの仕事について具体的に調べ始めたのです。どれくらいの知識が必要なのか、どのような人間性が求められているのかについて、情報を集めることにも力を注ぎました。その結果、自分が進むべき道がどんどん明確になっていったことを覚えています。日本のプロ野球チームで、コンディショニングコーチになるという新たな夢を持った時、野球選手への未練から解き放たれ、目標に向かって進み出すことができました。


人生に遅すぎるということはない  

P1120600_3一度決めたら、まっしぐらです。大学卒業後にはアメリカの大学へ留学しようと、準備を始めました。15年前の当時から、スポーツ医学の進んでいたアメリカでインターンの経験を積みたかったからです。結果的に、日本とアメリカの2つの大学を卒業することになったのですが、遅すぎたとも遠回りだったとも思っていません。決断した時こそが、始めるべき時なのではないかと思います。しかし、走り出した私の前に、大きな壁が立ちふさがりました。「英語」という壁です。留学を決めたものの、ずっと野球ばかりやってきたので、きちんと英語の勉強をしたことがありませんでした。渡米まで残された時間は1年間。できる限り厳しい環境で英語を学ぼうと思い、英語以外使ってはいけない都内の語学学校に通いました。アメリカへ行く前に、英語しか話せないもどかしさやストレスへの抵抗力がついたことは、非常によかったと思います。


まだ見ぬ道を進むために

アメリカの大学選びは、よりチャンスに近づくためにはどうすればよいかという観点で情報収集。日本人の真面目さをよく知っていて、なおかつ、日本人が少ない場所がよいということで、オハイオ州の大学に決めました。そして1番の目標は、MLBデトロイトタイガース傘下AAAトレッドマットヘンズでインターンをすること。同球団のメジャーレベルのチームに木田優夫投手(元日本ハムファイターズ)がいらっしゃったのですが、当時、日本人選手の存在はめずらしいこと。選手でさえもめずらしい時代ですから、日本人のコンディショニングコーチは、なおさらです。誰かが作った道を歩くことは、心強い反面、競争率が高いですよね。それなら、自分で新しい道を作っていけばいい、そんなふうに考えました。


自分なりの方法でアピール

20080412_329942_2 渡米後の2ヶ月間も、まずは語学学校に通いました。大学の授業がスタートする前に、英語の勉強以外で、これだけはやろうと決めて実行したことがあります。それは、私が所属する学部の学部長と先生方への挨拶です。まず、学部長に電話でアポイントを取るための文章を用意し、拙い英語で話したことを覚えています。実際にお会いして、インターンが1番の目的であること、日本に戻って、プロ野球チームのコンディショニングコーチになるのが夢だということを伝えました。こんなことをする学生は今までにいなかったために印象に残ったようで、その後もずっと目をかけて頂きました。そして約3ヶ月かけて、先生方への挨拶回りをしたのですが、学部の授業が始まった時に、先生方が「ユウジ」と私のことを覚えていてくださったのは、本当に嬉しかったですね。


「人の力」とは「準備力」

目標だったインターンは、まず、キャンパス内のトレーニングルームから始まりました。そこでは、すべての運動部の学生と接することができるので、コミュニケーションの取り方を学ぶことができましたし、いろいろなトレーニングの補助を経験したことは、後々にも役に立ちました4年生時からはついに、目標であったトレッドマットヘンズに帯同してのインターンを開始。インターンは簡単にできるわけではないとよく聞きますが、私は「人の力」に、大して差は無いと思っています。目的に向かって準備ができるかどうかで差がつくのではないでしょうか。目標のインターンの席を勝ち取ることができたのは、準備と野球選手を尊敬する気持ちを常に忘れなかったからだと思います。


夢が正夢になった日

Photo_2 アメリカの大学を卒業後は、当初の目標を達成すべく、日本に戻ってプロ野球チームのコンディショニングコーチになることだけを考えていました。そこで、12球団すべてに履歴書を送ったところ、千葉ロッテマリーンズの秋季キャンプに参加できることになりました。今まで遠い存在だった選手が、側にいるのです!感激で胸が震えました。正式採用になって7年間、ロッテのコンディショニング・コーディネーターとして、選手をみてきました。私は「夢は正夢」という栗山英樹さん(日本ハムファイターズ監督)の言葉が大好きなんです。自分のなりたい姿を思い描いて、そこに向かって努力を積み重ねれば、夢も必ず正夢になると信じています。

すべてはゴールから始まる

私にとって留学生活は、異文化の中、自分の夢と課題に向かってひたすら集中できた時間でした。今、留学を視野に入れている皆さんに伝えたいことは、ゴールを決めてからスタートをしなくては意味が無いということです。何かから逃げるために留学を選択しようとしているなら、考え直してほしいと思います。留学があなたの人生を変えてくれるわけではありません。自分を変えてくれるものなんて無い。だから、自分が変わるしかないのです。自分自身がワクワクして向かうことのできる先へ、進んで行ってください。


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年8月 7日 (火)

Vol.6 トレーナー留学:重原 耕平さん

Kohei_shigeharaカナダ・グレンライオン・ノーフォーク高校 → カナダ・アルバータ―大学 → 独立リーグ・エドモントン・キャピタルズ → カナダ・マウントロイヤル大学大学院

高校から単身カナダにバスケットボール留学。大学は以前から興味のあったスポーツ医学を学び、学生ながらにして野球カナダ独立リーグ球団のヘッドトレーナーに就任。現在、CATA(カナディアンアスレティックセラピスト協会)認定のアスレティックセラピストを目指し、大学院で奮闘中。




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バスケットボール選手から野球チームのトレーナーになった異色の経歴を持つ重原さん。自分の置かれた状況の中で、常に全力を尽くしてきたカナダでの10年間についてお聞きしました。

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幼少期に決めた海外留学

幼い頃から両親の影響で、いずれは海外留学をするものだと考えていました。中学生の時に1ヶ月の短期留学を経験し、高校は海外の学校に進学することを決意しました。この時点で、自分自身が日本の高校と大学に行くイメージは想像できなかったですね。海外へのきっかけを作ってくれて、その上サポートしてくれた両親には本当に感謝をしています。


カナダ留学の始まり206833_10150470384820078_956394_n

英語の勉強とバスケットボールがやりたくてアメリカ行きを希望していましたが、2001年9月に起こった同時多発テロの影響で留学先をカナダに変更しました。カナダの公立高校への進学が決まっていましたが、すでに留学している従兄弟のサポートにより「バスケットボール推薦」という形でカナダの私立名門高校に入学することができました。大学進学のためにしっかり勉強する学校だったので、その分英語の壁は高く、最初はスピードについて行けなくて苦労しました。しかし話すことを躊躇していてはいけないと思い、積極的にコミュニケーションをとることを心掛けました。カナダでは文武両道の考えが浸透していて、もし成績が落ちればバスケをさせてもらえなくなりますから、勉強も必死で頑張りましたね。


トレーナーを目指すための決断

バスケットボールが強い高校で州大会で2年連続で準優勝になりましたが、私自身は現役引退を決意しました。大学で以前から興味のあったアスレティックセラピストを目指すためです。大学ではバスケ部の学生トレーナーとして所属し、学内のクリニックで実習を続けていたところ、なんと野球の独立リーグチームのエドモントン・キャピタルズで学生トレーナーインターンとして帯同するチャンスがやってきたのです。以前からインターンをしたくて、学部の教授に相談していましたが、球団のヘッドトレーナーをされていた日本人の先輩からのオファーでした。ここでもよい出会いに恵まれたと実感しています。

11269_326104160077_5762229_n 夢と苦悩と成長の3シーズン

先輩はすでに日本の大学でもスポーツトレーニングの勉強をしていて、それまで学内でしか実習経験が無く、右も左も分からない私を親切に指導してくれました。また、独立リーグの選手たちも私を1人のトレーナーとして受け入れてくれたので、チームに溶け込むことができました。2年目はようやく周りが見えてきて、大きい遠征にもついていくようになり、選手との信頼関係を築くことができました。そして3年目、トレーナーが私一人となりヘッドトレーナーとしてのシーズンが始まりました。やはり、状態の悪い選手を優先的にみることになるのですが、周りの選手から「俺もみてくれ」との要望が殺到。1人でシーズンを通して回していくことの難しさを知りました。自分のことは犠牲にしてもいいから選手に納得してもらえるように対応をする、これだけは絶対に守ろうと心に決めました。


資格は通過点

3シーズンを終えたところで、チームがメジャーリーグの傘下に入るための準備期間に入りました。私は大学を卒業し、トレーナーの資格を取るためにCATA(カナディアンアスレティックセラピスト協会)の認定校である大学院で、アスレティックセラピストの資格を取るための勉強を始めました。資格取得後は、アスレティックセラピストとして野球界で上を目指したいと思っています。目標はメジャーリーグのチームで働くことですが、最終的にはバスケットボール選手の専属トレーナーになる夢も忘れていません。どんなケガや症状にも対応できる知識をつけるために、多くの選手と出会ってもっと経験を積みたいと思っています。


「後悔」という言葉は無い37337_10150225174785078_3543783_n

私はカナダに留学して10年目になりますが、トレーナーになるために海外留学しようと考えているなら、できるだけ早く行くことをお勧めします。それは、語学習得をスムーズに行うためです。スポーツトレーニング自体の勉強は、英語ができないと始まりません。それに留学を目指している人に共通して言えることは、留学して何がやりたいかを明確にすること。私の周りでもこれをやるぞ!と決めている人が、留学を成功させています。私もまだまだ勉強と夢の途中ですが、「後悔」という言葉は全くありません。うまくいかないこともありますが、そんなことは気にせず、夢に向かって進んでいきたいです!


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年8月 3日 (金)

Vol.5 トレーナー留学:櫻井 剛之さん

Taka_sakurai茨城・土浦第二高 → 米デラウェア大学 → 米インディアナ州立大学大学院 → MLBフィラデルフィア・フィリーズマイナーリーグ

高校卒業後、スポーツ医学の最先端であるアメリカへトレーナー留学。大学でNATA公認のアスレチックトレーナーとNSCA公認ストレングス&コンディショニングスペシャリストの資格を取得後、幅広い知識を学ぶため大学院へ進学。2008年よりMLBフィラデルフィア・フィリーズ傘下マイナーチームにてアスレティックトレーナーとして活躍中。




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大好きなスポーツに関わる仕事がしたいという思いから始まり、壁を越えてメジャーリーグでの仕事をつかんだ櫻井さん。いつも状況を冷静に判断し進んできたプロトレーナーへの経緯をお聞きしました。

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スポーツに関わる仕事を目指して

もともと野球だけなくスポーツが大好きだったので、ストレングスコーチになりたいと思ったのが高校2年生の秋でした。最初は日本の大学に進むつもりでしたが、スポーツ医学の最先端であるアメリカには日本より多くの選択肢があることを知り、アメリカへ留学する道もあると考えたのがきっかけです。渡米後は約1年間、語学学校に通ったものの、大学に入ってからしばらくは英語で苦労をしました。しかし、日本語クラスで知り合ったアメリカ人の友達ができたことから、生活と言葉が激変。彼がいろいろな所に連れ出してくれたおかげで友達が増え、授業では習わないようなネィティブの英語も話せるようになりました。彼とは今でも付き合いがありますが、とても感謝しています。

E ピンチはチャンス

学校が始まってみると、自分のやりたい選手のパフォーマンス向上と体力強化がメインのストレングスコーチの勉強とは違い、選手のケガの予防とリハビリトレーニングがメインのアスレティックトレーナーの勉強ばかりでした。やりたいことが勉強できると思って入った学部だったのに何かが違うと思いアドバイザーに相談すると、このまま勉強を続ければストレングスコーチの資格が取れるとのこと。そして何より私自身もアスレティックトレーナーの勉強がおもしろいと感じるようになり、アスレティックトレーナーとしてプロ野球を目指してみようと思うようになりました。最初はこのような経緯でしたが、今ではアスレティックトレーナーが自分の仕事となっているのですから、何がきっかけになるか分からないものですね。


動き出したアスレティックトレーナー人生

多くの大学生は、在学中に学生トレーナーとしてプロ球団などの高いレベルでの実習経験を積みますが、私はそういった経験が積めないまま、四年制大学の卒業時期が近づいていました。まだアスレティックトレーナーとしての自信がなく、勉強よりもとにかく経験を積みたいという思いから大学院に進むことを決めました。最初の春学期が終わった時点で、メジャーリーグ全球団に履歴書を送りアプローチ。しかし、よい答えが返ってきた球団は1つもありませんでした。ただ時間だけが過ぎて行く中、なんとかして経験を積まなくてはと焦る気持ちで、ボランティアのような形で参加する無給のインターンシップに応募しました。すると、MLBフィラデルフィア・フィリーズから「インターンで来ていた人が辞めたので、今すぐにでも来てほしい」との連絡が!しかも、通常の報酬がある有給インターンです。本当にいいタイミングでチャンスをいただいたと、今でも思います。

Tak_sakurai_2メジャーリーグで働く感動

約半年間のマイナーリーグでのインターンはシーズン途中からの参加だったため、最初のスプリングキャンプからシーズンを通してやりたいという気持ちが強くなっていきました。球団へ相談をしたところ、大学院卒業後、1年目はコンディショニングトレーナー、2年目はアスレティックトレーナーの研修をする2年間のインターンプログラムに参加することができました。ここで学んだことを活かし、現在は、仕事としてフィリーズ・マイナーリーグのショートシーズンAでアスレティックトレーナーとして働いています。漠然とアメリカに行こうと思った高校生の頃、まさかメジャーリーグ球団で働くことになるとは思ってもいませんでした。まだ自分も成長の途中ですが、こうしてメジャーリーグで働くという目標を達成した感動は忘れてはいけないと思っています。

チャンスは自分でつかむもの

アメリカへ行く前は、メジャーリーグ球団で仕事をすることの難しさが分かっていなかったのですが、留学をしてみると、ただ勉強を頑張っていればできるというものではなく、自分から積極的にアプローチをしてネットワークを築いていかなければならないことを知りました。っ私も最初はアプローチの方法が分からず、メジャーリーグばかり目指していましたが、今は経験を積むなら、まずはマイナーリーグのほうが勉強になると感じています。どうせダメだろうとあきらめることなく挑戦し続けていれば、見逃しそうな小さなチャンスもつかめる時がやってくると思います。

Taka_sakurai_3最初の夢を叶えるために

アメリカに行こうと決意した時、日本のプロ野球で働くことが夢でした。その思いは今も変わっていません。アメリカでは少なくとも3年はアスレティックトレーナーとして働き、周りの人から学べることはできる限り学び5年後、10年後の自分に活かしたいと思っています。アメリカのプロチームは選手だけでなくサポートスタッフも厳しい世界なので、1日1日を大切に頑張っていきます。そして、次は日本で最初の夢を叶えます!



【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

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