カテゴリー「野球留学」の5件の記事

2016年3月12日 (土)

Vol.18 大学野球留学:早川良太郎さん

成田高→カンザス大B25aa89c

名門・成田高校を卒業後、アメリカへ視察に行ったのがきっかけで大学野球留学を決意。全米屈指の野球強豪校・カンザス大学に入学するも英語力不足で1年間は野球部のマネージャー活動を強いられる。その後、見事メンバー入りを果たし4シーズン投手として活躍しチームに大きく貢献した。卒業後は日本へ帰国し、大手企業に勤めた後、父親の経営する会社の取締役に就任。現在はスリランカをはじめとする東南アジア圏の野球普及活動に尽力している。



_____________________________________________

アメリカ大学野球のトップで輝いた日本人選手がいました。その名は、早川良太郎さん。大和魂を持ちながらアメリカ色に染まった留学時代。選手として、日本人として、大切なことは何か、貴重なお話をお聞きしました。
_____________________________________________

アメリカ行きを決めた出来事

野球漬けの高校3年間を経て、私が選んだのはアメリカ留学でした。大学進学を控え、日本の大学のセレクションも受けていたのですが、合格はもらえず……。日本にこだわらず、アメリカに行くのもいいのではないか。同じ野球部の中に、アメリカ留学を目指している選手がいたことに刺激を受け、また、以前、父が仕事で駐在していたことで思い入れがありました。さまざまな思いが重なり、アメリカへ心が動き出したとき、さらに私の心をつかむ出来事が起こります。アメリカの大学野球部へ見学に行ったのですが、まず、なんて球場がきれいで大きいのだろう、と感動しました。次に、メジャーリーグ観戦。当時、マリナーズでプレーをしていた佐々木主浩投手が、クローザーとしてビシッと締める姿を観て、心底しびれました。そんな興奮冷めやらぬ翌日、驚くべきことが起こりました。スーパーへ買い物に行くと、なんと佐々木投手がいるではありませんか。握手をしてもらった瞬間、心が決まりました。

必要なのは英語力とアピール力

248986_10101047080129989_1825893008アメリカ行きを決めたからには、英語力をなんとかしなくてはいけません。この時点で私の英語のレベルは、自己紹介もできないレベル。留学に必要なTOEFLの勉強をする塾に通い始めたのですが、1回目のTOEFL試験のことは、今も忘れもしません。なんと、リスニングテストがいつ始まったのかわからなかったのです。父には「アメリカの4年制大学で野球をするということが、どういうことなのかわかっているのか」と言われ、高校の先生には、英語力について「相当頑張らなくては難しいよ」と言われたことで、お尻に火がつきました。

必死に勉強をし、インターネットでアメリカの大学野球についての情報を調べました。そして、高校卒業後の6月に渡米。語学学校に通いながら、大学の野球部が練習している場所を探して、自分を売り込みに行きました。そんな私のことを監督がおもしろがってくれ「今度、グラウンドに来なさい」と声をかけてくれるようになりました。実際に行ってみると、ブルペンで投げさせてくれると言うのです。その日はすこぶる調子がよく、力を発揮することができました。翌日からチームに合流。朝6時には朝練に参加していました。

充実した環境で野球と勉強ができる幸せ

1923563_561499169169_1130_nチームに帯同でき、思う存分野球ができるようになりましたが、ここで1つ問題が浮上。私はまだ大学の学生ではないので、正式な選手としての資格がないのです。せっかくチームに入れてもらえたのだから続けたい。この思いを伝え、父も交えて監督と相談したところ、1年間はマネージャーとして参加することになりました。1年後は何としても大学に入らなくてはいけない。気合いで語学学校を卒業し、晴れて正式な選手としてチームの一員となった日は、とてもすがすがしい気持ちでした。私の進んだ大学は、学校からのサポートが手厚く、ユニホーム、道具、遠征費など、すべて大学が負担してくれました。驚いたのは、私はコンタクトレンズをしていたのですが、それも野球に必要なものだからということで、費用が出たことです。また、サポートは野球に関してだけではありません。勉強のほうも頑張れるようにと、チューターを3人、さらには家庭教師までつけてくれました。「リョウタロウが落第しないように」と(笑)。もちろん、野球をする環境も最高でした。ロッカールーム、室内練習場、トレーニング室など、非常にきれいで充実していました。野球と勉強の両立は大変でしたが、こんなに充実した環境で野球ができ、留学生活が送れることは、本当に幸せだったと思います。

あの日あの時に呼び寄せたチャンス

Ryotarohayakawakuksu01_2選手としてようやくチームに入れたものの、チームメイトや監督やコーチとうまくコミュニケーションがとれず、あまり積極的になれずにいました。最初もハワイ遠征も一緒に行ったのですが、出番はなし。しかし、チャンスが巡ってきたのです。シーズンは終盤にさしかかった頃、その年の1位になった強豪チームと対戦。先発ピッチャーが1回表で4点を取られてしまい、ピッチャーを交代させなくてはいけないのですが、この日は金曜日。夜の試合と土日の試合のために、チームとしてはよいピッチャーを温存させておきたい。そこで、私に声がかかりました。2回から投げて、9回シャットアウト。それまでは長くて4イニングしか投げたことがなかったのに、いきなりこんなに長く投げシャットアウトしたので「この日本人すごいぞ!」と言われ、学内の新聞に大々的に載ることに。この日以来「リョウタロウはいける!」ということで、大事な場面で投げさせてもらえるようになったのです。この頃の私は、言葉が分からない中、野球と勉強の両立や試合に出られないもどかしさで精神的にまいっていました。このままでいいのか……。何かを打破したい気持ちでトレーニング方法を変え、基本に帰ってシャドーピッチングをするようにしました。すると風向きが変わり、チャンスの日を呼び寄せたのでした。

我が野球人生に悔いなし

260583_10100919952140499_38798901_2大学の野球部時代を振り返ってみると、走馬灯のように駆け巡ります。練習のお手伝いや雑用をしながら野球をしていたマネージャー時代。チャンスをたぐり寄せた1年生。サマーリーグに参加しましたが、クローザーとして多くの試合に投げ、肘をこわしてしまった2年生。疲労骨折と診断され、手術をしてリハビリとトレーニングに費やした3年生。カムバックした4年生。自分としては肩の調子は非常によいと感じていましたが、チームは若返りをはかっており、出番は少なくなりました。最上級生ともなれば、後輩の面倒を見て、チームを引っ張っていかなくてはいけません。

ドラフトにかからなければ、もう完全燃焼。最後まで野球をやりつくし、自分で決めて進んだ道をまっとうしたと感じました。マネージャーから始めて5年間。その生き方を後輩たちが見て慕ってくれました。最初は言葉が分からず苦労しましたが、アメリカ人になろうという思いで野球をしていました。自分が自分に言い聞かせていた約束があります。それは、決して誰の悪口も言わないこと。明るさやひょうきんさをウリにしていると、チームメイトとファミリーになることができました。コーチともよい関係でした。ボール磨きやグラウンドにトンボをかける私の姿を見て、驚いていたようです。アメリカの選手たちは、そのようなことは専門のスタッフに任せ、自分たちではしないからです。こうした5年間を経て、引退試合のあとのスピーチでは……まずは笑いをとりました。これが大事です。そして、締めくくりはこれまでのすべての思いを込めて、感謝の気持ちを伝えました。

これから海外を目指す選手へ

10338868_10102040922601709_579729_3日米の野球の違いは、まずアメリカは、練習にメリハリがあると感じました。スケジュールが細分化されており、プルペンも選手たちの授業のカリキュラムに沿って使う時間が決められていたほどです。これから海外を目指す選手には、現地のトレーナーさんの言うことをきくのも大事ですが、日本のトレーナーさんと話をするようにしてほしいと思います。というのは、私自身、アメリカのトレーニングにどっぷりはまってしまい、無理に身体を大きくしてしまったからです。元々アメリカの選手とは体格が違います。それなのに同じものを同じだけ食べていては、無理が生じてくるのは当然です。日本のトレーナーさんに診てもらえば、無駄な筋肉がついていることもわかったはず。定期的にきちんとメンテナンスをしていれば、故障はしなかったかもしれません。次に、大和魂を捨てないでほしい。その上でアメリカの生活や仲間に柔軟に対応し、馴染んでいくようにしてください。そして、やりたいことや思いを口に出してみることは大事です。たとえ今の時点で英語ができなくても「将来、チャンピオンになる!」という思いだけでも、英語で語ってみるのがいいですよ!

11698489_10153445121779723_81594906私自身、アメリカに行ってからは、すべては野球のために動いていました。勉強との両立も試験をパスすることも。「すべては野球のため」それは今も変わっていません。今はスリランカの野球事業に携わっています。活動場所はスリランカに移りましたが、現地の野球発展に尽力したいと思っています。さらには東南アジア全体に野球が普及、発展していくように、できる限りのことをしていきたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年1月29日 (金)

Vol.16 大学野球留学:岡野 智紀さん

Okanotop広島城北高→ノース・グリーンビル大

日本人メジャーリーガーのパイオニア・野茂投手の活躍に魅了され、高校卒業後にアメリカ大学野球留学を決意。大学硬式野球部では、投手として活躍し、スポーツマネジメント学位を取得。卒業後はニューヨークのスポーツアカデミー会社に6年間勤務し、現地の子供たちに日米の野球理論を交え指導に従事。帰国後、コンサルティング会社を経て、ベースボールコニュニケーションに入社。


_____________________________________________

中学生のときに持ったアメリカへの憧れ。時が経つほど強くなり、憧れから目標へと変わっていきました。思いを成し遂げるためなら、壁が立ちふさがっても、後戻りはしない。いくつかの困難を乗り越えて、憧れを現実にした岡野智紀さんのお話をお聞きしました。
_____________________________________________

野茂選手のピッチングに魅せられて

あれは、中学生のときでした。テレビで観ていたメジャーリーグの試合で、当時、ドジャースでプレーしていた野茂英雄選手がノーヒットノーランを達成したのです。日本人が世界に通用している、アメリカの野球ってどんな世界なんだろう、と心が揺さぶられました。それまでアメリカへの興味はなく、日本で野球を続け、高校では甲子園、その後はプロを目指すものだと思っていました。野茂選手がノーヒットノーランを達成したこの日、私の野球人生にとって、大きな分岐点となったのです。

「反対」という壁を乗り越えて実現したアメリカ留学

Okano_5高校時代は、甲子園を目指し、卒業後はアメリカに行きたいと思っていました。ただ、この思いは自分の心の中だけにあり、なかなか両親に話すことができませんでした。持ち続けてきたアメリカへの思いを話したのは、卒業間近の高校3年の2月。予想はしていましたが、大反対されました。「環境も言葉も違う場所へ行って何ができるんだ」と。まだこの時点では、私の持っているアメリカへの思いがうまく伝わっておらず、「日本の大学へ行きなさい」の一辺倒でした。しかし、ここであきらめてしまっては、これから先ずっとアメリカにはいけないだろう、日本で野球を続けることでアメリカ行きを断念してしまうのではないかと考え、説得を始めました。

私が話したのは、「4年」という時間がほしい、期間を決めてメジャーを目指す、それでだめなら日本に帰って勉強するから、ということでした。説得には時間がかかりました。しかし、私も頑固な性格。それを知ってか、最終的に父が「そこまで言うなら、やれるだけやってこい」と言ってくれたのです。私を信じてアメリカ行きを許してくれた両親を安心させるためには、まずは、現地の大学へ入らなくていけません。行くと決めたからには、死に物狂いで英語を勉強しました。塾へは通わず、独学で1日10時間。アメリカで挑戦したいという気持ちが、私を奮い立たせてくれました。

野球ができない!

Okano_6高校卒業後の6月に渡米。最初の3ヶ月間は、語学学校に通いました。TOEFL500点をクリアし、9月には大学へ入学。「大学に入って野球をする」という目標があったので、頑張れました。しかし、ここで思いもよらぬことが。いよいよアメリカで野球をする日がやってきた、と意気揚々としたのも束の間、チームに入ることができないのです。大学に入ればチームにも入れるものだと思っていたのが、認識違いでした。これまで当たり前のようにしてきた野球ができない。これほどもどかしいことがあるのかと思いましたが、とにかく今やれることをやろうと、一人でトレーニングとランニングを続けていました。やはり、時にはくじけそうにもなりましたが、チームの練習を見に行き、「何かできることはないか」と、コーチにアピールもしました。そして、チームの選手たちが練習している横で、壁当てをしてピッチングを披露。誰も声を掛けてくれることはありませんでしたが、球場に行くと、本当に心が晴れました。「こんな場所で毎日野球ができるんだ」と、ワクワクした気持ちが今でも忘れられません。また、英語さえ鍛えておけば、チャンスは巡ってくるだろうと思い、勉強のほうも気を抜かずに取り組みました。結果、成績はオールAに。とにかくできる限りのことを、毎日コツコツと続けていました。

おとずれた転機

Okano_3大学2年になり、転機がやってきました。サマ―リーグに参加し、アメリカでの野球が始動。ようやくスタートラインに立ち「やっと野球ができるんだ!」と、この時ばかりは涙が出ました。しかし、これまでチームに入っていなかった自分は、そう簡単には試合に出ることはできません。救いだったのは、コーチが「日本人の選手、好きなんだよ」と声を掛けてくれたこと。元メジャー選手で、人柄のよいコーチでした。そんな中、リーグが始まって10試合目、3-2で負けているところで突然、コーチが「お前いくよ」と。驚いている間もなく、ピッチング練習も存分にできていないまま、マウンドへ。その場の準備はできていなかったものの、これまでの地道なトレーニングが実を結んだのか、三者三振に。日本にいる時、球は速いほうではありませんでしたが、この時点では145キロ出るようになっていました。「アイツやるな」と、周りからの評価もグッと上がり、試合を観ていた大学チームのコーチから「全額奨学金を出すからうちに来ないか」と、オファーがありました。これで親にも負担をかけなくてすむ。試合後に電話をすると、喜んでくれました。壁にぶつかりながらもくじけずやってきてよかった、と心から思った瞬間でした。

自分を見失いそうなときは原点に戻って

Okano_7サマ―リーグ後、独立リーグからもオファーがきたのですが、迷った末、勉強もしたいしする必要があると思い、大学で野球をすることに決めました。熱心に誘ってくれたコーチがいる大学へ転校。周りは自然にあふれ、車もほとんど通らないような所でした。もちろん日本人がいるはずもなく、まだまだ野球英語がわからずに、思うようにコミュニケーションが取れない毎日。勉強も野球も中途半端になっている気がして、ストレスを感じていました。そんな自分を奮い立たせてくれたのは、アメリカへ渡るきっかけとなった野茂選手の映像。なぜ自分はここにいるのだろう、そんな原点を思い出させてくれました。迷っていても仕方がない、チームメイトと仲良くならなければ、何も始まらないと考え、できるだけこちらから話しかけるようにしました。そうすると、チームメイトたちが知っている日本語を使ってギャグにしてくれたり、お箸の使い方を教えてと言ってきたり、楽しく接することができるようになっていきました。大学では、スポーツマネージメントを専攻。グループで学習をすることがあり、とても楽しく学ぶことができました。

日米野球の違い

Okano_11年からベンチ入りを果たし、日米の野球の違いを感じたのは、何と言っても練習の短さでした。ピッチャーはブルペンで投げて終了。物足りないからさらに練習をすると「コーチからの指示がないだろ」と言われるほどでした。野球をやらされているという感覚は、存在しません。あるのは「皆が野球を楽しんでいる」という事実でした。野球を楽しみながら、私がやるべきことだと考えていたのは、まず、試合で結果を出せるように自分を持っていくこと。アメリカ人は、チームを離れて個々がしっかりと自分のことを考えてトレーニングをしているのです。2つ目は、チームメイトとのコミュニケーションを大切にすること。そのためには雑用もすすんでするようしていました。

納得のいく終止符

Okano_44年生のとき、のちにメジャーまでのぼりつめた選手と対戦したのですが、見事にホームランを打たれてしまい……。しかし、これで自分の気持ちが吹っ切れたのは確かです。メジャーに行くような選手は、やはりひと際違います。私は、自分の野球をやり切ったと感じました。卒業後は、アメリカで就職。実は、大学在学中に父を亡くしていたのですが、母は「帰って来なさい」とは言わず、「決めたからにはやるだけやりなさい」と言ってくれました。就職先は日本人の方が経営している会社で、小中学生の野球チームの管理、野球教室での指導が、主な仕事内容です。利用者の60%がアメリカ人、40%が日本人でした。結婚を機に帰国するまで、アメリカで野球に関わる仕事ができたのは、とても良かったと思います。

留学を考えている選手たちへ

Okano_8これから留学しようとしている選手に対して思うことは、後悔だけはしてほしくないということです。そのためには、挑戦する気持ちが大事。肉食になって、突き進んでほしい。「今もガツガツしているぞ」と思っているなら、それを生かせるのは日本だけではないことを一度考えてみてほしいです。そして、アメリカの野球で成功するためには、まずは、何よりも英語です。言葉ができないと、どれだけ野球がやりたくてもできません。英語が苦手だとしたら、まずは漫画から始めて、簡単ことでいいので英語に触れることから始めよう。1日10個でもいい。最終的には、ただ意味を覚えるだけではなく、見て即反応できるように。野球に例えると、自然にボールに反応するような感覚で、英語を自分のものにすることを目指してほしいです。野球に関しては、正しい身体の使い方を学ぶべきです。これができるかできないかで、ずいぶん伸びしろが変わってきますから。そして、壁にぶつかってもくじけずにとにかく前へ進むこと。日本人の野球スキルは高いですから、どこにいても自信を持っていいと思います。私自身のこれからは、アメリカ野球のおもしろさを、もっと多くの人に伝えたいと考えています。大げさな言い方をすれば、日米の架け橋になりたい。そんな思いを胸に進んでいきたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年10月12日 (金)

Vol.7 野球留学:藤田 祥平さん

福岡東高校 → 米トロイ大学 Jujita

高校時代は福岡県の強豪校、東福岡高校で活躍。卒業後、アメリカの四年制大学に進学。日本人留学生としては数少ない、1部リーグで1年生からレギュラーの座を獲得。同校スポーツマネジメント学部を卒業し2010年に帰国。現在は社会人として働きながら、プロリーグに挑戦中。
_________________________________

アメリカの4年制大学1部リーグで、日本人では数少ないレギュラー選手として活躍した藤田さん。レギュラー選手になるためにはどうすればいいのか、凛とした志を語って頂きました。
_________________________________

アメリカへの思い

小学生の時に一度、アメリカで野球をしたことがありました。フロリダ州でおこなわれた2週間のベースボールアカデミーに参加したのですが、その時本当に野球が楽しくて。でも当時は、一緒に参加していたアメリカやベネズエラの選手たちと英語でコミュニケーションをとることができず、もっと自分の言葉で話せたらなと思いました。だから、いつかもう一度アメリカに行こうと心に決めていました。アメリカでアスレティックトレーナーの勉強をしようと留学を決意したのは、小学生の時の経験が大きかったですね。


まずは英語の壁を乗り越えて  

2415_559193410223_8992_n_3高校卒業後の進路として、日本の大学に進むことは考えていなかったので、野球部引退後、アメリカ留学について監督に相談をしました。監督は「厳しいからやめておけ」と。それでも自分はなんとかなると思っていましたし、楽しいイメージばかり持って、飛び込んでいくような勢いでした。はじめは母が少し不安がっていましたが、最終的には両親も応援し背中を押してくれました。渡米先は、暖かい場所に行きたかったので、アラバマ州の大学を選びました。留学前に日本で英語の勉強はしていたものの、実際に話してみると、全然通じませんでした。アメリカに住んでいたら英語はある程度話せるようになると安易に思っていましたが、全然、無理。そこから英語の猛勉強が始まりました。渡米後1年間、語学学校に通っている時は1日15時間、英語の勉強をしたこともありましたね。


野球無しではいられない

野球から離れ、以前から興味があったアスレティックトレーナーの勉強をするために留学をしたのですが、野球に未練がなかったかというと、そうではありませんでした。しかし、大学でアスレティックトレーナーの勉強と野球の両立は無理だと言われていたので、勉強のために野球への思いを抑えていました。それでも、思いは隠せないものです。フェンス越しに見えるグラウンドがあまりにもきれいで、この場所で野球ができたらどんなにいいだろうと憧れの気持ちが強くなっていきました。悩んだ末、やはり自分の中にある野球への思いが勝ち、アドバイザーへ相談。すると、大学チームのコーチへ話をしてくれ、トライアウトを受けることになったんです!

憧れが現実に

165384_495187258561_5142320_nトライアウトは2日間に渡って行われました。1日目は私一人のために日を設けて頂き、バッティングや守備、ベースランニングをしました。 2日目は高校生のサーマーキャンプで試合形式の練習に参加。正直、1年間のブランクで感覚が鈍っているかなと思っていたのですが、監督からは「魅力的な選手だね。ウチに来なよ」との言葉をもらい、合格することができました。このトライアウトで結果を出せなかったから、今後も難しいだろうと思っていたので、本当に嬉しかったですね。1年前まで、フェンス越しに見ていた憧れのグラウンドに足を踏み入れた時は、感激でした。


野球+勉強+個性=レギュラー選手

165678_495182768561_8121218_nアメリカの野球の良いところは、個々を重んじて様々なプレイスタイルを尊重してくれことですが、その反面、自分を主張していかないと埋もれてしまいます。日本ではあまり自分をアピールすることに気を遣いませんでしたが、アメリカではいかに自分をアピールするかということをよく考えていました。そのためには勉強も大事です。シーズン中は、平均で1週間に3試合、合計40試合程度をこなしながら、大学の授業にも出て勉強もしっかりする、それができてこそ、アメリカの1部リーグのチームではレギュラーになれるのです。それに加え私は日本人選手なので、体の大きさでは勝つことはできない分、スピードで勝たなくてはいけません。チャンスがいつ来てもいいように、準備はしっかりとしていました。また、勉強の不安がプレーに出てしまわないように手を抜かず精一杯勉強する、これも準備の一つであり、厳しい競争の中で勝ち抜いていく秘訣だと思っています。

異国の地でみつける新しい自分

今後、留学をする皆さんには、現地の文化や慣習に触れることのできる場、例えばパーティなど現地の人と交流ができる場所に積極的に足を運んでほしいですね。現地の文化、そこに住む人の考え方や価値観に五感を使って触れることで、日本では感じられないことを感じ楽しむことができ、新しい自分にも出会えることができると思います。異国の地では、違った価値観に戸惑うこともあるかもしれません。しかし、英語を習得して壁を乗り越え、相手の気持ちを理解し自分の気持ちを伝えることができれば、自信にもつながり野球にもよい影響を及ぼすはずです。野球に集中するためにも、まずは英語で自由にコミュニケーションがとれるようになることが大事ですね。

すべては実行することから始まる

164583_495183223561_5627211_n留学を通して「実行する」ことの大切さを強く感じました。あれこれ考えてアイデアが浮かんだとしても、それを実行に移さなければ意味がありません。私自身、留学前は自分を出していくことが得意なほうではなかったのですが、実行してみないと良いか悪いかも分からないと気づきました。やってみた後、結果に応じて対策を講じればいいし、それが成長する糧になるとも思うんです。今は、プロになることを目標に、いろいろな方法にチャレンジしています。年齢的にも残された時間は多くありませんが、後悔しないためにもできる限りのことをやり尽くすつもりです。そして好きな野球に限らず、すべてのことに全力を尽すことが大事だと思っています。忠実に努力しながら人生を生き、成長することができれば、多くのいい出会いにも恵まれると信じています!そんな人生を楽しめたら最高ですね。





【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年7月18日 (水)

Vol.3 野球留学:鷲谷 修也さん

Washiya_top駒大苫小牧高 → デザート短大 → MLBワシントン・ナショナルズ マイナー球団

2005年の全国高校野球選手権で田中将大(現楽天)と共に全国制覇。高校卒業後にカリフォルニア州の短大に進学。2009年のドラフトでMLBワシントン・ナショナルズに指名され、日本人2人目のメジャーリーグドラフト指名選手となる。 帰国後は上智大学に編入し、現在は同校の陸上部で活躍中。


_____________________________________________

甲子園で活躍しても自分は野球のエリートではないと、文武両道を目指してアメリカに渡った鷲谷さん。日本人二人目のメジャーリーグドラフト指名選手となり、日本とアメリカの野球を愛し知り尽くした今、行き着いた場所と思いとは―。
_____________________________________________


偶然でもあり必然でもあった留学 1

高校2年生までは、プロ野球選手になりたいと思っていましたが、高校3年の時に野球とは全く関係なく、日本の大学の一般推薦入試を受けました。自分より能力がある高校の先輩たちが大学野球では通用をしないのを見て「オレは野球でメシを食っていけない」と思ったからです。しかし、結果は不合格。さあ、どうしようと思った時ふと、友達のお姉さんがアメリカ留学をしていることを思い出したんです。そして、アメリカ留学は、これまで野球一筋だった自分にも勉強も基礎からできるチャンスがあると思いましたし、推薦入試の悔しさを晴らしたいという気持ちもありました。アメリカ行きを父親に話すと最初は反対されたのですが、自分のやりたい未来図を話して説得し、承諾してもらいました。でも今思えば、友達のお姉さんがいなかったら、留学はしていなかったかもしれません。不思議ですね。

語学とスポーツは似ている

半年間、英語の個人レッスンを受けてすぐに英語試験に挑みました。「英語は得意だったの?」とよく聞かれるのですが、決して得意だったわけではありません。ただ、スポーツと語学って似ていると感じていたので取っ付きやすかったのだと思います。アメリカの入学基準は一般書類選考でしたが、自分のプレイをしている動画を送ったところ、入学した短大の野球部が声をかけてくれました。もともと留学したら割合は野球1、勉強9のつもりだったので、自分のプロフィールのつもりで送ったビデオだったんですが、当時の監督の目に止まったんですね。そのご縁で、在学中は監督の家にずっとホームスティさせてもらい、アメリカのお父さんのように接してくれました。

396539_3277183258320_1237475083_n_3日本人2人目のドラフト指名選手へ

短大1年目に各球団から、スカウティングレポートが送られてきましたが、野球を職業にするつもりはなかったので、プロになる意思がないことを伝えていました。それでもドラフト会議の1週間前になって球団から「(指名したら)いくらでサインするんだ?」という話があって。正直、こんな直前になってまで言われるとは驚きました。実際にMLBワシントン・ナショナルズから指名を受けたのですが、悩んだ末に辞退しました。
その翌年の短大2年目は、ドラフト半年前からすでに打診がありました。ちょうどその時、地元・北海道に帰ったのですが、多くの人たちがアメリカで野球をしている私を応援し期待してくれているのだと知り「よし、チャレンジしよう!」と決意しました。そしてその時点で、多くの4年制大学から編入のオファーがありましたが、そのことは一切考えなくなりました。決めたからには道はひとつだと思い、大学編入のサインは1校もしませんでした。コーチには「名門大学に行けるんだから大学編入のサインをした方がいい」って言われていたんですが(笑)。


メジャーリーグを目指して 

いよいよその年、ナショナルズから14巡目(412番目)でドラフト指名を受け、プロ野球選手になりました。所属は、新人選手がスタートするルーキーリーグのガルフ・コースト・リーグ・ナショナルズでしたが、ずっとマイナーリーグにいるつもりはなかったので、短期勝負だと思っていました。特に、食事の面などの生活環境が厳しかったのでこのままではいけない、絶対、上にあがってやるという気持ちが原動力でした。今思えば、人生においてマイナーリーグでメジャーリーグを目指すことができたことはとても誇りに思っています。

2_2自分を変えたアメリカ野球

私はアメリカの野球を経験して、メンタル的に成長できたと感じています。日本の野球は「ミスをしない野球が良い野球」だと思われていますが、アメリカは「ミスをしてもいいからアグレッシブにいけ」と言います。そのおかげで、それまで気づいていなかった自分の能力に気づくことができ、また野球以外の面でも自分を変えることができました。日本で過ごしていた時は、何でも無難に過ごしていけばいいと思っていたんです。でも、アメリカでは何でも挑戦してみよう、人がやらないことをやってみたいと思うようになり、短大の卒業式でも自分からアピールしてスピーチをしたりしました。ドラフト選手からメジャーに上がってやろうと思っていたのも、まだ他の日本人が成し遂げていないことをやりたいという気持ちがあったからです。

自分の気持ちに正直になることが大事 3

帰国してからは、石川県の独立リーグ球団に所属した後、ずっと目標であった四年制大学への編入を目指し、上智大学に入学しました。そして部活動は、小さいころからずっとやってみたかった陸上の短距離で頑張っています。野球に関しては、未練は全く無く、野球人生で自分の能力以上のものが出せて完全燃焼したというのが正直な気持ちです。私はいつも大好きな野球を精一杯やってきたので完全燃焼できましたが、もし皆さんが自分の進む道に迷ったとしたら、その時その時で自分のやりたいことは何なのかと考え直してみる、そしてその道の向こうにあるビジョンを思い描いてみることが大切だと思います。道の途中で目標ややりたいことが変わるかもしれませんが、常に自分の気持ちに正直にいればきっと悔いが残ることはないはずです。私も、将来は何がやりたいのかどんな可能性があるのか、ビジョンを思い描いているところです!

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年3月27日 (火)

Vol.2 野球留学:中村 佳嗣さん

Nakamura724abc88979bd35 カナダ・ブロックハースト高校 → トンプソンリバーズ大学

高校からカナダ・バンクーバに留学し、内野手として活躍。中心選手としてブリティッシュ・コロンビア州大会優勝、高校全加オールスター「ベストウエスト」のメンバーに選出。大学時代は外野手として活躍し、全加大学選手権大会(CCBC)の優勝に大きく貢献。その後、母校野球部のアシスタントコーチを歴任、豊富な指導経験を持つ。


_____________________________________________

中学卒業と同時によりよい野球環境を求めて、カナダへ留学した中村佳嗣さん。15歳でカナダ留学を決めた中村さんに、その時の思いと留学生活についてお話をお聞きしました。
_____________________________________________


カナダ留学への第一歩Rimg0001_3

最初にカナダへの野球留学という選択肢があることを知ったのは、中学2年生の時です。きっかけは母の言葉だったのですが、母の知り合いの息子さんがすでにカナダに行っておりその話をして薦めてくれたんです。実際に行くことを決意したのは、中学3年生の春でしたね。周りの友人が進路や考え学校を探し出した頃、私は自分の進む道をカナダへの留学と決めました。


野球をもっと好きになるために

このように私は日本の高校には進まず、中学卒業と同時にカナダへ行ったので、よく日本の野球や甲子園に未練はなかったのかと聞かれるんです。答えは、まったく無かったですね。高校に行ってから野球を辞めてしまう先輩を何人も見ていたので、このまま日本の高校に進めば楽しい野球ができるかどうか疑問でした。たとえ甲子園に出ることができたとしても、野球中心の3年間を過ごせば学力の面で追いつかないだろうとも考えました。もちろん私も野球で上を目指したいという気持ちはありましたが、何よりも野球が嫌いになってしまったら元も子もありません。でもカナダに行けば、楽しく野球をすることができる上に英語も習得できるのです!楽しい野球と将来につながる英語、それは当時の私にとっては甲子園よりも魅力的なものだったんです。野球をもっと好きになるためにカナダ留学を選んだと言ってもいいかもしれませんね。

197047_5936785870_625905870_58708_8野球をするために英語は必須

とは言え、英語が得意だったのかというとそうではありませんでした。正直、自分が英語を使うようになるなんて考えていなかったので、中学2年生の夏までは成績も悪くて・・・。私の英語の習得方法は、日本のマンガでした。英語は全部分からなくても映像を観ることによってその英語が何を言っているのかが分かるようになり、しだいに耳が慣れてきたのです。あと野球チームの仲間とのコミュニケーションも、英語の上達には必須でした。カナダの高校には野球部がなく、地域のクラブチームに所属します(日本で言うシニアやボーイズリーグ)。ですからチームメイトと毎日会うわけではないのですが、彼らとの間には野球という共通のものあったので、すぐに打ち解けて仲良くなれました。特にカナダは部員数が少なく私のチームも14人だったので、全員で楽しく和気あいあいとした雰囲気でした。

自主的なカナダの野球

野球において日本とカナダの違いは、自分のやりたい練習をできることだと思います。日本では特に高校生の頃は全体練習の中で自分のやりたい練習をやるということはあまりできないと思うのですが、カナダでは高校生から各自が考えて行うという練習ができました。あと、食事面にすごく気を遣っていて、大学生になると遠征の時でもサラダや鶏の胸肉を自分で調理したものを持って来ている選手もいました。自分の体は自分がしっかり管理する、それだけ野球選手としての意識が高かったのだと思います。

199358_5936765870_625905870_57503_3 楽しく、そしてより高いレベルで

カナダでは、6月から2ヶ月間の夏休み中に開催されるサマーリーグがあります。高校生、大学生やメジャーリーグで活躍した元プロ野球選手までもが、それぞれの地域でチームを結成して戦います。ですから普段は別の学校やチームで戦っている選手たちが同じチームになり、大学のシーズン中には行けない町に行って試合をすることもできます。日本で言うクラブチームのようなものなのでレベルはとても高いですが、学ぶことも多く楽しく野球をすることができます。

野球とは「親」である

私にとって野球とは「親」です。実際、母がカナダ留学の話をしてくれなかったら、日本の高校に行って野球をやっていたと思います。ですから私にとって母の言葉は本当に大事でしたし、人生を変えましたね。そして両親は、若い時から自立心を養ってほしいという思いでカナダ留学のサポートもしてくれました。嫌いになることもあれば、感謝することもある存在。自分にいろいろなことを教えてくれる存在。親が存在しなかったら自分が存在しなかったように、野球なければ今の自分は存在していません。そしてカナダに行ったからこそ、野球が自分にとって大切なものであり続けていると感じています。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)