Vol.18 大学野球留学:早川良太郎さん
成田高→カンザス大
名門・成田高校を卒業後、アメリカへ視察に行ったのがきっかけで大学野球留学を決意。全米屈指の野球強豪校・カンザス大学に入学するも英語力不足で1年間は野球部のマネージャー活動を強いられる。その後、見事メンバー入りを果たし4シーズン投手として活躍しチームに大きく貢献した。卒業後は日本へ帰国し、大手企業に勤めた後、父親の経営する会社の取締役に就任。現在はスリランカをはじめとする東南アジア圏の野球普及活動に尽力している。
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アメリカ大学野球のトップで輝いた日本人選手がいました。その名は、早川良太郎さん。大和魂を持ちながらアメリカ色に染まった留学時代。選手として、日本人として、大切なことは何か、貴重なお話をお聞きしました。
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アメリカ行きを決めた出来事
野球漬けの高校3年間を経て、私が選んだのはアメリカ留学でした。大学進学を控え、日本の大学のセレクションも受けていたのですが、合格はもらえず……。日本にこだわらず、アメリカに行くのもいいのではないか。同じ野球部の中に、アメリカ留学を目指している選手がいたことに刺激を受け、また、以前、父が仕事で駐在していたことで思い入れがありました。さまざまな思いが重なり、アメリカへ心が動き出したとき、さらに私の心をつかむ出来事が起こります。アメリカの大学野球部へ見学に行ったのですが、まず、なんて球場がきれいで大きいのだろう、と感動しました。次に、メジャーリーグ観戦。当時、マリナーズでプレーをしていた佐々木主浩投手が、クローザーとしてビシッと締める姿を観て、心底しびれました。そんな興奮冷めやらぬ翌日、驚くべきことが起こりました。スーパーへ買い物に行くと、なんと佐々木投手がいるではありませんか。握手をしてもらった瞬間、心が決まりました。
必要なのは英語力とアピール力
アメリカ行きを決めたからには、英語力をなんとかしなくてはいけません。この時点で私の英語のレベルは、自己紹介もできないレベル。留学に必要なTOEFLの勉強をする塾に通い始めたのですが、1回目のTOEFL試験のことは、今も忘れもしません。なんと、リスニングテストがいつ始まったのかわからなかったのです。父には「アメリカの4年制大学で野球をするということが、どういうことなのかわかっているのか」と言われ、高校の先生には、英語力について「相当頑張らなくては難しいよ」と言われたことで、お尻に火がつきました。
必死に勉強をし、インターネットでアメリカの大学野球についての情報を調べました。そして、高校卒業後の6月に渡米。語学学校に通いながら、大学の野球部が練習している場所を探して、自分を売り込みに行きました。そんな私のことを監督がおもしろがってくれ「今度、グラウンドに来なさい」と声をかけてくれるようになりました。実際に行ってみると、ブルペンで投げさせてくれると言うのです。その日はすこぶる調子がよく、力を発揮することができました。翌日からチームに合流。朝6時には朝練に参加していました。
充実した環境で野球と勉強ができる幸せ
チームに帯同でき、思う存分野球ができるようになりましたが、ここで1つ問題が浮上。私はまだ大学の学生ではないので、正式な選手としての資格がないのです。せっかくチームに入れてもらえたのだから続けたい。この思いを伝え、父も交えて監督と相談したところ、1年間はマネージャーとして参加することになりました。1年後は何としても大学に入らなくてはいけない。気合いで語学学校を卒業し、晴れて正式な選手としてチームの一員となった日は、とてもすがすがしい気持ちでした。私の進んだ大学は、学校からのサポートが手厚く、ユニホーム、道具、遠征費など、すべて大学が負担してくれました。驚いたのは、私はコンタクトレンズをしていたのですが、それも野球に必要なものだからということで、費用が出たことです。また、サポートは野球に関してだけではありません。勉強のほうも頑張れるようにと、チューターを3人、さらには家庭教師までつけてくれました。「リョウタロウが落第しないように」と(笑)。もちろん、野球をする環境も最高でした。ロッカールーム、室内練習場、トレーニング室など、非常にきれいで充実していました。野球と勉強の両立は大変でしたが、こんなに充実した環境で野球ができ、留学生活が送れることは、本当に幸せだったと思います。
あの日あの時に呼び寄せたチャンス
選手としてようやくチームに入れたものの、チームメイトや監督やコーチとうまくコミュニケーションがとれず、あまり積極的になれずにいました。最初もハワイ遠征も一緒に行ったのですが、出番はなし。しかし、チャンスが巡ってきたのです。シーズンは終盤にさしかかった頃、その年の1位になった強豪チームと対戦。先発ピッチャーが1回表で4点を取られてしまい、ピッチャーを交代させなくてはいけないのですが、この日は金曜日。夜の試合と土日の試合のために、チームとしてはよいピッチャーを温存させておきたい。そこで、私に声がかかりました。2回から投げて、9回シャットアウト。それまでは長くて4イニングしか投げたことがなかったのに、いきなりこんなに長く投げシャットアウトしたので「この日本人すごいぞ!」と言われ、学内の新聞に大々的に載ることに。この日以来「リョウタロウはいける!」ということで、大事な場面で投げさせてもらえるようになったのです。この頃の私は、言葉が分からない中、野球と勉強の両立や試合に出られないもどかしさで精神的にまいっていました。このままでいいのか……。何かを打破したい気持ちでトレーニング方法を変え、基本に帰ってシャドーピッチングをするようにしました。すると風向きが変わり、チャンスの日を呼び寄せたのでした。
我が野球人生に悔いなし
大学の野球部時代を振り返ってみると、走馬灯のように駆け巡ります。練習のお手伝いや雑用をしながら野球をしていたマネージャー時代。チャンスをたぐり寄せた1年生。サマーリーグに参加しましたが、クローザーとして多くの試合に投げ、肘をこわしてしまった2年生。疲労骨折と診断され、手術をしてリハビリとトレーニングに費やした3年生。カムバックした4年生。自分としては肩の調子は非常によいと感じていましたが、チームは若返りをはかっており、出番は少なくなりました。最上級生ともなれば、後輩の面倒を見て、チームを引っ張っていかなくてはいけません。
ドラフトにかからなければ、もう完全燃焼。最後まで野球をやりつくし、自分で決めて進んだ道をまっとうしたと感じました。マネージャーから始めて5年間。その生き方を後輩たちが見て慕ってくれました。最初は言葉が分からず苦労しましたが、アメリカ人になろうという思いで野球をしていました。自分が自分に言い聞かせていた約束があります。それは、決して誰の悪口も言わないこと。明るさやひょうきんさをウリにしていると、チームメイトとファミリーになることができました。コーチともよい関係でした。ボール磨きやグラウンドにトンボをかける私の姿を見て、驚いていたようです。アメリカの選手たちは、そのようなことは専門のスタッフに任せ、自分たちではしないからです。こうした5年間を経て、引退試合のあとのスピーチでは……まずは笑いをとりました。これが大事です。そして、締めくくりはこれまでのすべての思いを込めて、感謝の気持ちを伝えました。
これから海外を目指す選手へ
日米の野球の違いは、まずアメリカは、練習にメリハリがあると感じました。スケジュールが細分化されており、プルペンも選手たちの授業のカリキュラムに沿って使う時間が決められていたほどです。これから海外を目指す選手には、現地のトレーナーさんの言うことをきくのも大事ですが、日本のトレーナーさんと話をするようにしてほしいと思います。というのは、私自身、アメリカのトレーニングにどっぷりはまってしまい、無理に身体を大きくしてしまったからです。元々アメリカの選手とは体格が違います。それなのに同じものを同じだけ食べていては、無理が生じてくるのは当然です。日本のトレーナーさんに診てもらえば、無駄な筋肉がついていることもわかったはず。定期的にきちんとメンテナンスをしていれば、故障はしなかったかもしれません。次に、大和魂を捨てないでほしい。その上でアメリカの生活や仲間に柔軟に対応し、馴染んでいくようにしてください。そして、やりたいことや思いを口に出してみることは大事です。たとえ今の時点で英語ができなくても「将来、チャンピオンになる!」という思いだけでも、英語で語ってみるのがいいですよ!
私自身、アメリカに行ってからは、すべては野球のために動いていました。勉強との両立も試験をパスすることも。「すべては野球のため」それは今も変わっていません。今はスリランカの野球事業に携わっています。活動場所はスリランカに移りましたが、現地の野球発展に尽力したいと思っています。さらには東南アジア全体に野球が普及、発展していくように、できる限りのことをしていきたいですね。
【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)