Vol.15 トレーナー留学:一原 克裕さん
日大習志野高→早稲田大→ハワイ大学マノア校→ブリッジウォーター州立大学大学院→MLBシアトル・マリナーズ マイナーリーグアスレティックトレーナー
高校時代はエースでキャプテンとしてチームを牽引。早稲田大学在学中は、同校アメフト部で学生トレーナーとして活躍。ブリッジウォーター州立大学在学時に、MLBマリナーズをはじめNFLやMLS球団で学生インターンを経験し、卒業後はMLBマリナーズのマイナー球団にてアスレティックトレーナーとして若手選手の育成に従事。帰国後はパーソナルトレーナーとして活躍する傍ら、NPOスポーツセーフティージャパンに所属しスポーツ現場の安全性と環境整備の普及に努めている。2013WBCでは中国代表チームのトレーナーとしても活躍した。
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学生トレーナーとして参加したフットボールの試合。アメリカチームの対応を見て、トレーナーとしての心が揺さぶられた一原克裕さん。アメリカに渡り、決して平坦ではない道を歩き続け先に、見つけたものがあります。そんな一原さんの激動の7年間を振り返っていただきました。
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野球選手からトレーナーへ、転身を決めた日
高校時代、キャプテンとして何とか毎日プレーをしてはいるものの、腰と首を痛め、大学で野球を続けるのは難しいと考えていました。自分自身が怪我をし、地元の接骨院で筑波大出身のトレーナーさんに身体を診てもらっていたこともあり、トレーナーという仕事に少し興味を持っていました。進学にあたり「トレーナーの勉強をするのもいいな」と思い始めていた頃、ある有名なトレーナーさんの存在を知り、「自分もトレーナーになりたい」という気持ちが強くなったのです。その方が教授をしている筑波大へ進もうと、2度受験に挑戦しましたが、残念ながら叶わず、早稲田大への進学を決めました。ここから、私のトレーナー人生が始まったのです。
学生アスレティックトレーナーとして踏み出した大学時代
早稲田大学では、硬式野球部でのトレーナー活動を熱望していました。しかし、様々な異なる競技の学生トレーナーの活動を見学させてもらう中で、自分の中のアスレティックトレーナー像に一番近かったのはアメリカンフットボール部だと感じ、トレーナーとして入部しました。入部後に知ったのですが、日本で最初に米国公認アスレティックトレーナー(ATC)の資格を取られた鹿倉二郎氏がヘッドアスレティックトレーナーであり、メディカル部門はとても充実したスタッフが揃っていたのです。学生トレーナーもアスレティックトレーナーとストレングストレーナーがそれぞれ設けられ、日々現場で実践を通して学べる環境に身を置くことができました。こうして大学4年間は、日本一を目指しアメフトに大きく関わることになったのです。
学生トレーナーから職業としてのトレーナーへ
大学1年の時、アメリカ・アリゾナで行われたトレーナー研修に参加しました。そこで、アメリカのスポーツを直に見ることができたのはもちろん、職業としてのトレーナーについてよく知ることができました。特に、現地で働いている日本人トレーナーの姿を見ることができたのは、大きかったです。ただ、自分が同じようにアメリカでアスレティックトレーナーをするということは、まだ想像がついておらず、「大学の4年間、アメフト部で学生トレーナーとして全うしよう。その上で仕事にするかどうか考えよう」と心に決めました。そして、4年間やり通した結果「仕事にしたい」と、決意が固まったのです。
私の心をアメリカへ向わせた出来事
アスレティックトレーナーを仕事にしようと決意をしたのですが、この時点で、アメリカへの憧れや米国公認アスレティックトレーナーになるという気持ちはありませんでした。しかし、そんな私の心がアメリカへ向うきっかけとなった出来事があったのです。2008年に行われたU19日米対抗戦が日本で行われ、私はアメリカサイドに学生トレーナーのリーダーとして入りました。英語は話せないので、必死で行動する中、試合終了間際に選手が脳しんとうを起こし意識を失って動かなくなりました。アメリカチームのアスレティックトレーナーとヘッドコーチ、そして私は急いで選手の元に駆けつけました。これまで大学アメフト部の4年間現場で学んできたものの、頚椎固定をしてスパインボードに乗せて固定し搬送するほどの怪我に直面するのは自分にとって初めてのシチュエーション。出来るだけサポート役として責任を全うしようとしていましたが、アメリカ人のアスレティックトレーナーとヘッドコーチが迅速に対応し、選手を和ませながら身体のチェックをしていく。そして、レフリーも選手の異変を見逃さないとっさの判断をする。もう、それは完璧だと感じました。アメリカのチームは、ここまで迅速で素晴らしい対応ができるのかと、心が震えました。そして「目指すところはここだ!」と思ったのです。「アメリカで学ぶべきだ。アメリカに行こう!」。この日を境に、人生が動き出しました。
ハワイ大学を選んだ理由
半年間、日本で英語の勉強をし、大学卒業後の7月にハワイへ渡りました。留学先としてハワイ大学を選んだのには、理由があります。渡米前に、高校のラクビー部で臨時トレーナーをしたのですが、怪我をした選手をケアしたり、段階的に競技復帰させる仕組みがまったくありませんでした。それを見て、仕組みが整っておらず手が届いていない場所を自分の手で変えていきたい、と思うようになったのです。その頃、ハワイ州が条例で全ての公立高校にアスレティックトレーナーを雇い、配置している歴史を知り、なぜ条例化が可能になり、誰が動いたのか、全てを知りたくなりました。
ハワイに渡ってからは、大学で大学院へ進学するために必要な単位をとることにし、語学学校には通わず、学校の授業で生きた英語を学ぶようにしました。そして、ここでも学生トレーナーとして、アメフト部で活動しました。本場での活動は、とても楽しいと感じるものの、まだ英語がなかなか上手く話せなかったので、「今日もひと言も話せなかったな……」と、1日が終わってしまうこともあり、日によって充実感に波がありました。ただ、話せなかった分、テーピングは誰よりもきれいに巻くことができ、技術が選手とのコミュニケーションのきっかけになりました。
トラブルを乗り越えて
こうして奮闘する中、とんでもないことが起こりました。大学院のプログラムが消滅してしまうというのです。「卒業はできる」と言われたものの、この先どうなるかわからない。ハワイで取った単位を認めてくれる学校を探した結果、マサチューセッツ州にあるブリッジウォーター州立大学の大学院に受け入れてもらえました。せっかく入った大学院のプログラムがなくなってしまうというまさかの出来事。(現在、プログラムは復活しています)。リサーチや手続きは、たとえ日本にいてさえも大変なことなのに、英語もまだ上手く喋れない段階で転校とアメリカ本土への引越しは正直不安が大きかったです。ただ、ハワイ大学のクラスメートの半分が一緒だったのは、精神的に救われたなと思います。ブリッジウォーター州立大大学院へ転校を決め、アメリカ本土に渡りました。ブリッジウォーターは、ボストン近郊の田舎町でのんびりした場所。落ち着いて勉強をすることができました。
粘り勝ちで開いたインターン参加への道
4か月間ある夏休みには、最初の2か月はプロアメフトチーム(NFL)で、後半の2か月はプロサッカーチーム(MLS)でインターンをしました。サッカーチームでは、日本人アスレティックトレーナーの下、プロチームで働く事とはどういうことなのか、これからアスレティックトレーナーを職業とする中で何が大切なのかを学びました。ただ、NFLサマーインターン参加の採用をもらうまでは、かなり苦労をしました。書類をチームへ送り連絡を待っている時、その後採用されるNFLチームでイヤーインターンをしていた先輩に誘われ、チームのパーティに参加する機会がありました。そして、そこには全てのメディカルスタッフが来ていたのです。
「送った書類は見て頂けましたか?ぜひ、お願いします!」と、ヘッドトレーナーに積極的に話し掛けて直談判。その場では「わかった」と言ってくれたのですが、2か月間音沙汰なし。「せっかく会うところまでいったのに、このまま引き下がれない」と思い、メールと電話をし続けました。すると、そのヘッドトレーナーが私の大学院へ講義に来ることがあり、「また、会ったな!」と挨拶を交わしました。大学院の教授も私のことを薦めてくれ「よし、わかった!」と言ってくれたので、今度こそは大丈夫だろうと思いました。しかし、またまた連絡は来ません。どうしたものかと思っていると、ようやく夏のキャンプの1週間前に、採用決定。全チームから断わられていましたが、最後まであきらめずに動いた結果の粘り勝ちでした。
インターンを経てつかんだ正式採用
NFLでのインターンは想像以上にハードで、この時が人生で1番きついと感じました。しかし,NFLの何万人もの観客のもとで行うゲームは圧巻。鳥肌の立つような感覚が忘れられず、やりがいを感じました。そして2011年スプリングトレーニングでは、イチロー選手のいるマリナーズで2週間のインターンを行いました。すぐそばでイチロー選手を見ることができたのは、トレーナーとしても非常に勉強になったと思います。卒業後は、アメリカに残ってもっと学びたいという気持ちが強く、がむしゃらに就職活動をしました。しかし、書類を80通ほど送り、面接まで行けたのは4回。電話で話すときには、英語の壁にぶつかる。「もう、無理かな」と思い始めた頃、プロアメフト独立リーグのチームから「採用」の連絡が入ったのです。「1週間後に来られるなら、採用するよ」とのこと。急でしたが「仕事があるならどこにでも行く」という強い気持ちで、身体一つボストンからカリフォルニアはサクラメントへ飛びました。状況も生易しいものではなく、トレーナー3人で60人の選手を診て、雑用や事務も含めてすべてを行わなければなりません。始まる前に早く行って、準備をして整える。どうすれば早く進めることができるのか、ここでは、早稲田大時代の経験が役に立ちました。そして、チーム帯同時にはどう動けばよいか、何を持っていけばいいか、インターンで学んだことが活かされました。仕事は大変でしたが、これまでやってきたことが確実に実を結んでいく毎日でした。
再び、マリナーズへ

アメリカ生活を振り返って

これから海外へ留学しようとしている皆さんへ

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)
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