Vol.1 トレーナー留学:平林 豊さん
横浜商 → 南ミシシッピー大学 → MLBカンザスシティーロイヤルズ(日本人選手専属通訳兼アスレティックトレーナー)
高校卒業後、アメリカへスポーツトレーナー留学。大学在学中は、同校硬式野球部の専属トレーナーとして担当し、NATA(全米アスレティックトレーニング協会)認定アスレティックトレーナー取得。08年、MLBテキサス・レンジャーズの春季キャンプトレーナーを経て、09年、MLBカンザスシティー・ロイヤルズにて、日本人選手の専属通訳兼アスレティックトレーナーを歴任。
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高校卒業後アスレティックトレーナーとしての道を進むためにアメリカに渡り、ついにメジャーリーグで仕事をするという夢を叶えた平林さん。―大好きな野球を続けることは、選手でいつづけることだけではない―アメリカ留学生活を語る平林さんの言葉には、そんなメッセージが込められています。
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夢へのスタート地点
高校1年生の時、脛(すね)の内側が炎症を起こすシンスプリントを発症しました。医者からは安静にするように言われていたにも関わらず、練習は休めない、全力プレーをしないと先輩から怒られるという状況。痛みに耐えながら騙し騙しプレーを続けた結果、全治6ヶ月の疲労骨折をしてしまいました。この時もどかしい気持ちを抱えて、もっと自分の体のことを知りたい、自分で正しいケアをしたいと思いました。ここがスタートだったのかもしれません。 その後もずっと足のケガには悩まされ続けました。だからこそ同じ境遇の選手をサポートしたいと思うようになり、高校3年の夏にはアスレティックトレーナーを目指すことを決意しました。日本でもトレーナーになれることは知っていたのですが、やりたいことすべてに合致するのがアメリカでした。でも、ここで大きな壁が待っていたんです。
壁を乗り越えるために
それは両親の大反対でした。アメリカ行きを話すと「留学する意欲が感じられない」と一蹴されてしまいました。その時点では何を話しても否定され言葉も思いも伝わらないので、「これは行動で示すしかない!」と奮起しました。まず、アルバイトで稼いだお金で英字新聞の購読と衛生放送に加入し、毎日メジャーリーグの試合と映画を観るようにしました。そして家中のものには英単語を書いた付箋を貼ったのですが、家族からはすごく迷惑がられて剥がされもしました。でも私も引き下がらず「アメリカ」と名のつくものには何でも食らいつきました。今思うと恥ずかしいくらいアメリカかぶれだったなあと思います。必死なのかムキになっているのか、とにかく両親にアメリカ行きを認めてもらいたい一心でした。その時の気持ちと態度は、高校時代に監督に認めてもらおうとがむしゃらにアピールしていた時と同じでした。
1年後に伝わった思い
英語とアメリカに囲まれて暮らしていると、いつの間にか生活の一部のようになっていました。学校の授業では得意ではなかった英語の勉強が楽しみとなり、どんどん頭に入ってくるんです。それは先に自分の夢、メジャーリーグがあったからです。そんな私の姿を見て伝わるものがあったのか、ようやく両親から許しが出ました。アメリカ行きを打ち明けてからちょうど1年が過ぎた頃でした。
いつも積極性を忘れなかった留学時代
私がアメリカに渡った頃、メジャーリーグでは野茂選手、イチロー選手、佐々木主浩選手が活躍していました。ミシシッピ州の大学に入学した私は、反対された両親を説得して出てきたこともありますし、憧れだけで終わらせるわけにはいかないと自分に言い聞かせていました。とにかく何でも積極的にやることをモットーとし、まだ英語もまともにできない頃から大学野球部の練習に顔を出し、ボール拾いやバッティングピッチャーを申し出たりもしました。自ら作ったインターシップのようでしたが、英語が上達しアメリカ流の人づきあいも覚えることができました。
意識を変えたキャンプインターン
大学4年生の時、私の意識を大きく変える出来事がありました。テキサス・レンジャーズのキャンプインターンへの参加です。簡単に採用されるものだとは思っていませんでしたが、「当たって砕けろ」の精神でメジャー全30球団にコンタクトをとってつかんだ1つのチャンスでした。1週間のキャンプ中、スケールの大きさ、そこで働く人たちのプロ意識、すべてに圧倒されました。ここで意識が大きく変わったんです。それまで1つの到達点だと思っていた大学卒業と国家試験合格(全米アスレティック・トレーナーズ協会(NATA)の認定試験)を「通過点」と思うようになり、留学のゴールはそこではないと強く感じました。
努力が呼び寄せた「運」
国家試験に合格し就職活動をしていた時、またまたチャンスが舞い込んできました。「トレーナーの資格を持ち、英語が話せる人材を探している」という話です。これこそが、まさに目標としてきた仕事です。迷わず応募して英語での2次面接までいったのですが、そう甘くはありません。ここで一度、話は振り出しに戻ってしまいました。別の求人を探そうと心を入れ替えた時、なんと最初の面接官から連絡が来たのです。まさかもう一度連絡をもらえるとは思ってもいなかったのですが…。その後お会いするようになって一進一退しながら、気がつけば選手にマッサージをする「最終面接」まで進んでいました。結果、「内定」を獲得。送られてきた契約書を見た瞬間、背筋がピンと伸びました。
専属アスレティックトレーナーとしての第一歩
専属アスレティックトレーナーとして初めて選手をマッサージした日のことは忘れられません。ホテルの一室にマッサージベットを広げてのケアでした。第一歩を踏み出して「自分ができることは選手がやるべきことの何百分の一かもしれない。でもどんなにわずかなことでも選手のためになりたい」と決意しました。大物選手と同じ空間にいることを不思議に感じたこともあったのですが、いつも頭にあるのは選手のコンディションでした。私は専属している選手の「影」です。でも選手たちはそんな影をチームの一員として認め、一人のプロのトレーナーとして尊重しいろいろなことを教えてくれました。
留学で手に入れた財産
アメリカに留学して英語が話せるようになったことは、私にとってとても大きな財産です。それによって夢であったメジャーリーグで働くことも実現できたのですから。これからもアメリカで得たネットワークを活かしてできることがたくさんありますし、留学前に漠然と考えていたことが形になりつつある状況です。よい人間関係を作れたことと英語を使っていろんなことができるようになって世界が大きく広がりましたが、これらは留学前に想像もしていなかったことです。
夢への到達
自ら経験したケガから出発し到達したメジャーリーグは、私が目指した「駅」だったのかもしれません。例えば「あの駅に行って何時何分の電車に乗る」と決まっているならば、そう行動しますよね。それと同じような感覚で「やりたい」というより「やる」と断言して自分自身を奮い立たせていると、そこに行き着くのが当たり前のように思えてくるんです。留学をする時も留学中も夢を叶えるためには何が必要で、どうすればそれが身につくのかということばかり考え続けていました。その結果、最初は遠くにあった「夢」という「駅」にも到達できたのだと思います。
【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)
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