2020年3月27日 (金)

Vol.26 大学トレーナー留学:百井 浩平さん

Momoi5
California State University, Dominguez Hills - Cerritos College(米国大学)

幼い頃からバスケットボール一筋だった百井浩平さん。ケガで選手生活を終えましたが、バスケがあったから今の自分があると断言しています。バスケットボールが作ってくれた百井さんの人生についてお聞きしました。









バスケットボールとの出会い

バスケットボールと出会ったのは、8歳の時でした。4歳年上の兄から教えてもらったマイケルジョーダンの姿に魅了され、どんどんバスケットボールにのめり込んでいきました。小学校の高学年になると、毎日かかさず、兄と3時間のワンオンワンをしていたのですが、年下の私は負けてばかり。兄に勝ちたい一心で努力を続けたことで実力をつけ、小学校5年生の時には、先生から絶賛されるような選手になっていました。

中学では強豪チームに所属し、改めて“バスケットボール”を学ぶことができました。厳しい環境ではありましたが、選抜メンバーに入り順調にバスケ生活を送っていた時、手首の骨折というアクシデントに見舞われたのです。選抜メンバーからは外され、2軍落ち。その後、再び1軍に這い上がるものの、次は足のケガをしてしまいました。そして、二度と1軍に戻ることはなく、中学でのバスケ生活を終えることになったのです。
 

初の海外で見た別世界

Momoi1 進学した高校はバスケ部が弱く、別の環境に身を置き経験を積みたいという気持ちが芽生えました。両親に相談したところ、父が勧めてくれたのは、NBAチームの短期キャンプへの参加でした。高校2年の夏、単身で渡米。海外に行くのが初めてである上に、英語がまったく話せない私は、辞書片手に必死でコミュニケーションを取りました。

無我夢中で飛び込んだ場所。そこで見た光景は、見たことのない別世界でした。小学生から高校生までが共に活動しており、彼らはボールの扱い方からして自分の見てきたレベルとは違い、自己主張の強さに驚かされました。これまで自分がいたバスケットボールの環境を言葉で表すと団体。しかし、彼らがいるのは、自らのプレーを見せることで認められ、自己主張できなければ見てもらうことさえもできないという世界でした。そんな中で、身体の小さい私は、ディフェンスでアピールしようと努めました。その結果、キャンプ終了時にはディフェンス賞をもらい、英語ができない小さい身体の自分も、やればできるのだと道が開けた瞬間でした。


二者択一の末

高2の冬からキャプテンになり、アメリカで得たものをアウトプットしようとしましたが、チーム運営はなかなかうまく行かず、もどかしい気持ちのまま高校総体が終わりました。そして、迎えた進路決定の時。推薦の話があった日体大への進学かアメリカ留学か、二者択一を迫られていました。迷った末、バスケットボールの本場アメリカで挑戦したいと、留学を決意。「とにかく自分の持っているものを出してこい」という父の言葉が背中を押してくれました。

当時はSNSも普及しておらず、留学準備には骨を折りました。キャンプに参加した経験があるとはいえ、外国でのコミュニケーションには慣れておらず、どのような留学生活になるのか検討もつきません。情報収集も英語の勉強も、ひたすら本を読むというアナログな方法で、なんとか不安をとりのぞこうとしました。
人生の分岐点
Momoi4 渡米後は、語学学校ではなく高校に編入しました。バスケットボールで全米トップ5に入る高校で、日本人留学生はいません。選手たちは体格がよく、目の前でダンクシュートを決める姿は圧巻でした。すでに日本で高校を卒業していた私は、年齢の制限で公式試合に出ることはありませんでしたが、彼らと過ごす刺激的な日々を満喫していました。自分の強みであるディフェンスをアピールし、上のチームに昇格。練習試合に出してもらえるようになり、波に乗ってきた矢先、人生を変えるほどのアクシデントが私を襲いました。

足首じん帯のケガです。6か月間、車いすと松葉杖の生活。バスケ留学はどうなってしまうのか、心は折れ、悶々とする日々……。そんな時、テレビでアメフトの試合を観たのですが、フィールドで倒れている選手のもとに、全速力で駆けつける人の姿が目に飛び込んできました。手早く応急処置をする場面を見て、「俺がケガをした時は誰も来なかったぞ。プロになるとこんなケアが受けられるのか」と衝撃を受けたのです。これがアスレティックトレーナーという職業、スポーツ医学との出会いでした。


プロ選手と共に追いかける夢

大学卒業後も日本に帰る気持ちはありませんでした。スポーツ医学を勉強したいとスイッチが入った日以来、自分の目指すものはアメリカにあると思っていましたから。大学時代、とあるフリーマガジンで特集している「アメリカで活躍中の日本人」という記事を読んだのですが、そこにアスレティックトレーナー兼鍼師として活躍している小松武史さんのお話がありました。小松さんとの出会いは、私の世界観を大きく変えてくれました。理学療法センターでインターンをさせてもらいながらマッサージ師として働き、スポーツ医学分野を学びました。自分の手を使って相手をケアするということが好きだと気づき、インターン終了後、ビザを取得してマッサージ師として働きました。

そんな時、小松さんがメイントレーナーをしていた佐藤琢磨選手のレースにトレーナーとして呼んでもらう機会が訪れました。なんと、佐藤選手はその時のレースで優勝。大きな信頼を得た私は、パートタイムのトレーナーを経て専属トレーナーになりました。プロ選手のパーソナルトレーナーとして重要なのは、「愛嬌」と「礼儀」だと思っています。それはNBAであっても同じ。言葉にするのは簡単ですが、プロに就くのは自分の生活をどれだけコミットできるかどうかにかかっているので、並大抵のことではありません。選手とトレーナーの信頼関係が、選手のメンタルにも影響します。それを支え続けるのがトレーナーだと思っています。


誰のものでもない私の人生

Momoi2 こうして振り返ってみると、バスケットボールをしていて本当によかったと思います。もし、バスケをしていなかったら、留学はしていなかったでしょう。留学中、スポーツを通して「人」というものを学び、出会いの大切さを知りました。英語が話せない状態で渡米しましたが、スポーツを介すると、会話をしなくてもお互いに信頼関係を得ることができました。自分を見つめ直し、挫折をしても諦めない、乗り越えたらそこには夢がある。そして、今、プロの選手とともに夢に向かって走り続けている。こういう人生を作ってくれたのは、他でもないバスケットボールです。

これから海外へ行こうとしている選手の皆さんは、自分が日本人とだというアイデンティティを忘れないでいてほしいと思います。その上で、異国の文化を尊重してください。アイデンティティというのは、何をしたいのか、何を目指しているのかということ。この確固たる思いが自分を形成しているということです。何かにぶつかった時、“Why”で解決しようとしがちですが、それでは答えは出ません。理由は出ても、その先に進むことがない。でも、“What” “How” “Why”から生まれるものは、多くあります。「どのように解決するのか?」「何が必要なのか」を考えた時に“Why”とリンクをし、答えが出るでしょう。
次なる夢へ

アメリカと日本で大きく違うと感じるのは、選手の置かれている環境です。アメリカではどこでもボールをつくことができる環境ですが、日本ではのびのびとプレーできる場所が少ないと感じます。アメリカのような環境で育った選手たちは、自己主張ができ、潜在能力の出し方が日本人とは違ってくるのです。それを肌で感じた時、子供をよい環境で育成するトレーニング施設をつくりたい、という思いに突き動かされました。大人、子供問わず気楽に通える施設で、子供が目の前でプロのプレーをみれば、テクニックを真似して成長できる。そして、潜在能力を引き出し、伸ばすことができる。そのような施設を作ることが、今、私が向かっている大きな夢です!

【取材・文】金木有香
【運営】株式会社インディッグ / スカイダンク

Vol.25 バスケットボール留学:綾部 舞さん

Mai_ayabe 筑紫女子学園高 - University of Hawaii(米国大学)

女子バスケ選手として、海外・ハワイ大学で活躍した綾部 舞さん。先陣を切って女子バスケ界の新しい領域を切り開こうとする綾部さんに、力強いお話をお聞きしました。

 

 

 

 


バスケとラグビーの二刀流

バスケットボールを始めたのは小学2年生の時。姉が小学校のバスケチームに入っており、共働きだった両親は、姉と一緒に学校から帰らせたいという思いで、私を姉と同じチームに入れたのがきっかけでした。その頃、私は幼稚園から始めたラグビーにのめり込んでいて、バスケとラグビーを両立していました。こうして二刀流選手として活動をしていましたが、中学ではラグビーのために部活を抜けることができなくなり、バスケットボールに専念することに。その頃、周りからバスケットボール選手として認められ始めた私は、バスケのおもしろさに魅せられていきました。バスケとラグビーは似ているところがあり、中学まで両方を続けてきてよかったと思っています。


海外へ向かう気持ち

Ayabe6 高3になり、大学進学について考え出した私は、自由を求めアメリカの大学に挑戦したいという気持ちが芽生えました。そんなおぼろげな気持ちを確かな形にしてくれたのは、すでに留学を決めていたチームメイト2人でした。彼女たちの選択に背中を押され、私も「留学したい」「アメリカに行きたい」という気持ちが固まりました。早速、両親に相談し、留学先は親戚が住んでいるハワイに決定。今なら情報収集の方法はいくらでもあると思うのですが、当時、高校生の私にはそのような術も環境もありませんでした。そんな中、私が唯一これだけは譲れないというルールがありました。それは、ルームメイトは日本人以外であるということ。もちろん海外の地で日本人の友人も大切なのですが、何が何でも英語を使わなければならない環境に身を置くため、自分に課したルールでした。こう言うと何だか大変そうに思えるかもしれませんが、ルームメイトとはお互いに伝え合おうと努力し、その結果、英語力がのびました。今振り返っても、楽しい時間だったなあと思います。


夢と家族の思い

Ayabe1 ハワイに渡ってからは語学学校に通い、大学入学のために必要なTOEFLの勉強をしました。こうして1年が経った頃、父から「先が見えないから帰国しなさい」と言われてしまったのです。その矢先、最後に受けたTOEFLの試験で、大学の合格点に到達。とにかくこのまま帰国するわけにはいかないという思いで、ハワイ大学付属の短大へと進みました。短大にバスケ部はありませんでしたが、ハワイ大の付属ということで、将来を見据えた選択でした。そして、短大は四年制大学より学費が安く、仕送りをしてくれている両親の負担を減らすためでもありました。学校生活では大学を卒業すること目標とし、バスケットボールはストリートやジムで楽しみながら続けていました。

ストリートで男性を相手にしていたこともあり、女性の中で目立つ存在となっていた私は、ある日、ゲームに出場した際、レフリーの目に留まり声をかけられました。「君は四大でプレーするべきだよ」と。レフリーの紹介でサマーリーグに参加し、2か月ほど活動しました。そんな中、ハワイ大学のコーチに声をかけられ、トライアウトへの参加を認めてもうらことができたのです。


夢をかけた挑戦

しかし、両親からは反対されました。「もし、入学金や学費を払ってハワイ大に進んでも、トライアウトに合格しなかった場合、学校はどうするのか。1学期でやめてしまうのか」と。両親には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、せっかく巡って来たチャンス、あきらめることはできませんでした。ハワイ大に進み、トライアウトを受ける日がやってきました。“体力には自信がある。背が小さくて足が速いからディフェンスでプレッシャーをかけよう”。結果、トライした8人中私1人だけが合格。両親の反対を押し切って挑戦したトライアウトでしたが、無事に合格することができました。レフリーとの出会いから始まった幸運。人のつながりに恵まれたことに、今でも感謝しています。


苦手だった英語が楽しくなった

これから留学を考えている皆さんの中には、英語スキルに不安を持っている人もいると思います。私も高校時代、英語は得意な科目ではなく、ハワイの語学学校に通ってから必死で勉強をしました。一からやり直したという感覚です。でも、生活の中で英語を理解し通じると、楽しくて仕方ありません。友達の会話を聞いて言い回しを覚えることもありましたし、友達が自分より話せると悔しい気持ちにもなりました。こうして習得したことをすぐに試せる環境にいるのが、留学の醍醐味ですね。


部活と勉強の両立

Ayabe2 ハワイ大学に入ってからは、部活と勉強の両立が求められました。アメリカでは当たり前のことで、チームにはアカデミックアドバイザーがついて、宿題のヘルプや成績の管理をしてくれていました。さらに、学生生活を支えてくれるチューターもいて、環境に恵まれていたと思います。チームメイトが集まって一緒に勉強する時間が確保されていましたが、部活と勉強を両立できない選手はプレーをさせてもらえなくなるので、皆が一生懸命取り組んでいました。

ハワイ大ならではのエピソードがあります。バスケットボールのシーズン中は、ハワイ大の選手たちは飛行機で遠征に行くことが増え、学校に行けたのは、学期中2日間のみなんてことも。アカデミックアドバイザーがテストを持って来て、遠征先で受けるということもありました。バスケットボールも勉強も充実していた留学生活、仲間に恵まれたこともあり、ホームシックにかかることもなく、楽しく過ごしました。


英語を活かした仕事

大学卒業後は帰国し、バスケットボールを続けたい一心でチームに履歴書を送りました。しかし、返事はありませんでした。女子リーグのベスト16に入ったチームの選手しかリクルートしないような風潮で、選手を続けることの難しさを痛感しました。
 
就職した会社では、英語を使って海外とやりとりをするような業務を担っており、同僚は帰国子女や留学経験者ばかり。それなりに楽しくはあったのですが、どこか自分の中でひっかかりを感じていました。そんな時、プロリーグの部長と会う機会があり、チームの監督たちが来るトライアウトに、私を誘ってくれたのです。トライアウトの日は仕事があったのですが、“絶対に行ったほうがいい”と直感が働き、仕事を休んで向かいました。そこで出会ったのが「ライジング福岡(現:ライジングゼファー福岡)」のヘッドコーチで、私をすぐさま通訳として呼びたいというお言葉をいただきました。次の日にはGMから電話を頂き、トントン拍子にチームの通訳に就くことになったのです。その後、トヨタ自動車アンテロープスを経て、千葉ジェッツふなばしの通訳をしています。留学で得たものが今につながっているのは、幸運だと思います。
留学を目指す皆さんへ

Ayabe4 これから留学を目指す皆さんのことを考えると、いつも羨ましい気持ちになります。情報収集できる環境が整い、NBAの試合も気軽に観られるようになりました。岐路に立った時、自ら情報を得て判断材料にできる皆さんは、本当に羨ましい。だから、ワクワクすること、興味があることがあるなら、積極的にどんどん進んでほしいと思います。私の経験からお伝えすると、留学は絶対におすすめです! 英語が話せれば、できる仕事の範囲が広がるし、様々な国籍の人とコミュニケーションできる。それが自分の成長にもつながるのです。

私自身は、日本の女子バスケ界をもっと風通しのよいものに変えていきたいと考えています。日本の女子リーグは、外国人選手をチームに入れることもできず、世界を舞台に考えると、少し遅れていると感じます。でも、1つ言えるのは、男子より女子のほうが世界に羽ばたくチャンスが大きいということ。アメリカ人と日本人を比べると、男子より女子のほうが身体能力の差が少ないからです。可能性を秘めている女子バスケ選手の留学を支援していきたい。そして、女子バスケリーグの発展に貢献するのが、これからの目標です!
【取材・文】金木有香
【運営】株式会社インディッグ / スカイダンク

Vol.24 トレーナー留学:大村 夕香里さん

茅ヶ崎高-Alderson-Broaddus College(米国大学)-California University of Pennsylvania(米国大学院)

Oshima6 米国大学ではスポーツ医学とビジネスを学び、米国大学院ではアスレティックトレーニングの修士課程を修了。大学院卒業後、Morgan State University(米ボルチモア)でアシスタントアスレティックトレーナーとして、主にアメフトや陸上選手のスポーツ障害やリハビリ処置などに従事。その後、Coppin State Universty(米ボルチモア)ではヘッドトレーナーとして、主に男女バスケットボール部をサポート。4年間のアメリカ生活を経て帰国し、現在は専門学校講師や一流スポーツ選手の英会話講師として活躍中。


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ある時出会った「スポーツ医学」という学問。大村夕香里さんは自分の進む道はここしかないと、強い信念を持ってアメリカに渡りました。日本人だからこそぶつかった壁、日本人だからこそ乗り越えられた壁、そして何よりアメリカの地で確立した自分。海外での就業経験者の中でもめずらしいキャリアを持つ大村さんにお話を伺いました。


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明確な目標を持って

小学生からソフトボールを始めた私は、思い描く自分像がありました。それは「ケガをした時に自分自身でテーピングする人」。そうなるためには、看護師なのか別の医療系職種なのか、進む道を模索していました。こうして高校卒業後の進路を決める時がやって来ました。専門学校や大学などを様々な学校を調べてみましたが、ピンと来るものはありません。そんな時、アメリカの大学に「スポーツ医学」という専攻があることを知り、これこそが自分のやりたいことに直結すると感じたのです。

日本の入試システムに疑問を持っていたこともあり、アメリカに行きたい気持ちが強くなっていきました。実は、高校時代にも、アメリカへの交換留学を試みたことがありました。実際に渡米もしたのですが、1か月で帰国。現地で「英語力に問題がある」と言われ、高校に入ることができなかったのです。その苦い経験から高校卒業後は、日本で留学準備のために専門学校へ進学しました。英語は得意科目ではありませんでしたが、「英語さえクリアすれば、自分の目指すスポーツ医学を学ぶことができる!」と考えていました。専門学校の授業は英語で行われるため実力が身につき、TOEFLの点数も随分上がりました。そして、TOEFL6回目の挑戦で、志望校の基準点に到達することができました。両親は高校時代に起こった交換留学のトラブルから少し心配はしていたものの、母は自由奔放な私のことを考えて、アメリカ行きを肯定してくれました。



望んだ環境を手に入れた時

Oshima3 私の進んだ大学はほとんど日本人がいない環境でした。アカデミックアドバイザーは、スポーツ医学を専攻する初の日本人に対し、どのように対応すればよいのか、戸惑っていたようです。さらに先輩からも「スポーツ医学は難しいから、おすすめできない」と言われていましたが、私の気持ちは変わりませんでした。

渡米当時の私は、シャイでまじめな日本人として、周囲の目に映っていたことでしょう。大学1、2年の頃は、英語で医学用語が飛び交う中、必死で勉強していました。マイノリティな存在である日本人として心配されていましたが、成績も良く、認められるようになっていました。3年生になると、まさに自分がやりたかったことを学べているのだと実感でき、学ぶことが楽しくて仕方がありませんでした。そして、4年生になり進路を決める時期が来ました。周りには高校の教師になる学生が多く、アスレティックトレーナーを目指しているのは私一人でした。そんな環境の中、アスレティックトレーナーに関する情報量が少なく、もう少し時間がほしいという気持ちから、大学院を視野に入れました。すでに4年生の12月になっていましたが、教授のアドバイスもあり、無事に大学院に進むことができました。私を待っていたのは、刺激的な日々。中にはすでにATCの資格を取得している学生もいましたし、皆で教え合って学ぶ、まさに切磋琢磨でした。


アスレティックトレーナーとして

Oshima1 こうしてあっという間に1年が過ぎました。アスレティックトレーナーの資格試験を受けるものの、数点足りずに不合格。インターンをしながら次の試験に備えましたが、皆が合格していく中で、自分だけ受からないという悔しさがありました。

大学在学中、3回目の挑戦でアスレティックトレーナーの試験に合格し、学内のアシスタントアスレティックトレーナーとして、アメフト選手や陸上選手のスポーツ障害やリハビリ処置などに従事しました。そこは、多人種が集まり自己主張が強いコニュニティー。これまで見たことのない世界を見ることができました。日本人というだけで拒否されることもありましたが、自分を唯一採用してくれた場所だったので「ここで何が何でも頑張る」という強い思いを持っていました。

そんなある日、隣の大学でアスレティックトレーナーを探しているとの情報を得ました。面接を受けると「日本人はよく働くから」と言われて採用が決定。その大学ではアスレティックトレーナーが続けて辞めてしまったため、採用者からヘッドトレーナーを選ぶということになっていたのです。こうしてあれよあれよと、私がヘッドトレーナーに。メンバーたちの管理はもちろん、コーチからのクレームを受けて調整する役目となり、マネジメント力が求められました。年配のトレーナーとぶつかり合いながら働くのは難しかったですが、先の3年間の経験が役に立ちました。ここでも常に「働かせてくれた。その分を返したい」という気持ちで闘いのような毎日を乗り越えていきました。

 

アスレティックトレーナーを目指して留学を考えている皆さんへ

Oshima2 アメリカは受け入れてくれる器が大きい国です。そんな中で誰に出会うかが大事。私は日本人が集まるところに参加し人脈をつくるのは苦手でしたが、本音で話せる友人・知人と出会え、ヘッドトレーナーとして人と接していると、人間力を育てることができました。私はすべてにおいて先入観がなかったことが功を奏したのだと思います。

皆さん自身にやりたいことがあるなら、損得を考えずに進むほうがよいと思います。私がアメリカにいた頃とは違って、今はどこにでも日本人がいます。流されないように自分をしっかり持つこと。とはいえ、何より大事なのは人との出会い、一期一会です。良い人に出会えたのなら、良いところを吸収していけるようになれればいいと思います。

アメリカに行くと、日本ではできない経験ができます。ただ、それを日本に持ち帰るだけではうまく行かないことがあるかもしれません。そこで、自分が良いと思うことを日本のトレーナー界で調和させられるように、工夫する対応力を養ってほしいと思います。また、アスレティックトレーナーとして可能性を広げるためには、加えて教師の免許を取ることをおすすめします。どこで働くのか、海外なのか日本なのかは、早めに決めたほうがよいでしょう。先々、自分がどのようなアスレティックトレーナーになるのか考えて行動していくことが、何より重要な準備ですよ!

【取材・文】金木有香
【運営】株式会社インディッグ

2017年9月 8日 (金)

Vol.23 ソフトボール留学:田河眞美さん

とわの森三愛高 → 山梨学院大 → サウスウエスタン・カレッジ

Img_5401_26歳からソフトボールを始め、小学2年生の冬からピッチャーを本格的に開始。小学校4年生からエースとして全国大会へ出場。中学校2.3年生ともに全国大会出場、とわの森三愛高校時代には3年連続全国大会、中高ともに6年間国体へ出場。高校2年生の冬にはニュージランドへ3ヶ月ソフトボール留学を経験し、大学4年までの16年間に渡りソフトボールに励んだ。その後、2年間社会人経験を経て、2016年6月に渡米し語学とソフトボールを学んでいる。現在は、Southwestern Collegeの女子ソフトボール部で学生アシスタントコーチとして従事している。北海道札幌市白石区出身。

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幼い頃、偶然にも始めたソフトボール。その時から田河眞美さんの真ん中には、いつもソフトボールがありました。一度は離れてしまっても、たとえ遠ざけてしまっても、戻るところはあの日から変わらずただ一つ…。ソフトボールを愛し、ソフトボールと共に生きる、貴重なお話をお聞きしました。
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もしあの日、幼い私が道に迷わなかったら…

ソフトボールを始めたきっかけは、4つ上の姉の影響だったのですが、私が始めるまでには少し経緯があります。姉がソフトボールを始めた頃から、両親は共働き、姉は練習で、家に一人で留守番をすることが多くなりました。小学校1年生になったある日、学校の友達の家に行こうとした私は、道に迷ってしまって…。ソフトボールチームの監督がそれを知って「これからは危ないから一緒に練習しよう」と言ってくれたのです。これがソフトボールを始めたきっかけとなりました。

華やかさと影の間で探し出した分岐点

Unnamed_2小学校時代、ソフトボール選手として成長した私は、中学校は校区外のソフトボールが強い学校に通っていました。両親、叔母、チームの監督が送り迎えしてくれたことは、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。そして、進学したとわの森三愛高校は、当時、第2希望の学校でした。でも、日本代表チームの監督もされていましたし、こうして先生方が素晴らしいことは知っていました。また、とわの森三愛高校のOGで、ニュージーランド留学をした先輩がいたこともあり、自分にも「留学」が選択肢の1つとなったのです。とわの森三愛高校へ行ったことが今の私に繋がっていて、これも何かの縁のような気がします。

高校では、3年連続全国大会出場。そして、高2の3学期にニュージーランドへソフトボール留学をしました。ソフトボール選手としては輝かしい経歴に見えるかもしれませんが、高校時代の私は、スランプの闇から抜け出せず……。そんな様子を心配して、先生は「やりたいことがあるなら何でもサポートする」と言ってくださいました。とにかくネガティブな気持ちしか持てない自分を変えたい。そのためには、海外に行きたいと思ったのです。まさか留学をしたいと言い出すなんて、先生には意外だったようですが、すぐに手続きを進めてくださいました。

少し時間が戻りますが、小学校時代、毎年、三重県の熊野で行われるキャンプに参加していました。そこにニュージーランドからコーチが来ており、留学の際にも一緒にニュージーランドへ渡りました。この留学は、私にとって大きな分岐点。ホストファミリーの家で家事を手伝いながらソフトボールをする日々の中で、自分を見つめ直し、考えるきっかけとなったのです。


思い悩んだ気持ちを糧に新たな道を

Unnamed_4大学は、地元を離れ山梨学院大学へ。1年生時は顔面にボールが当たり、シーズンを棒に振りました。納得できるよい成績が残せないまま、迎えた最終学年。後にも先にも大学は残り1年、台湾遠征をはじめ、気合いを入れて頑張ろうと考えていました。しかし、そんな矢先「コーチをしてみないか」という話が出たのです。「選手として全うしたい」「両親に恩返しがしたい」という思いから、本当に悩んだのですが、求められているのなら受けることも大切だと考え、コーチになることを決意。それからは、コーチとしてチームのピッチャー全員を担当して見ていました。コーチになったことで、必要なのは選手だけではないということを思い知らされましたし、社会人への準備ができました。

実は、選手を退きコーチになった後、ある意味ほっとしたことを覚えています。「選手としてまっとうしたかった」という気持ちから、「選手としてやらなくてもよくなった」という気持ちに変わっていたのでしょう。とは言え、本当は重圧なんてなかったのです。自分が自分にプレッシャーをかけていたのだと思います。

幼い頃からソフトボール選手として、ずっと褒められて育ってきました。そんな私は、初めての挫折から上手く立ち直れず、長く尾を引いてしまったのです。高校と大学は、正直なところ、不完全燃焼。自分のやりたいと思うソフトボールができませんでした。でも、こうして思い悩んだこと、立ち止まって考えたこと、それがすべてマイナスだったとは思いません。今につながっていることは多いはずです。

背中を押してくれた母の言葉
Unnamed_1大学卒業後には、とにかく海外に行きたいという気持ちが強くなっていました。しかし、監督から「留学には費用がかかる。大学を卒業してまで親に頼るな」と言われ、確かにそうだと納得しました。就職活動をして人材派遣会社に就職しました。主に外国人への仕事を斡旋している会社です。仕事を求めてやって来る外国人は、決して豊かな国の人たちばかりではありませんでした。日本で勉強をしながらアルバイトをして、その上、母国の家族へ仕送りしている人もいたのです。そんな彼らからは、刺激と勇気をもらいました。
こうした中、2020年の東京オリンピックで、ソフトボールが追加種目として復活することになりました。これを受けて私も「何か行動しなくては!」と思い立ったのです。母に相談したところ「何かしたいと思った時にやらなくては、永遠に後悔するよ」と言ってくれ、その言葉が背中を押してくれました。まずは、留学のために貯金から開始し、会社は2016年3月に退職。その年の6月に渡米しました。しかし、ソフトボールができるかどうかはわかりません。知り合いなんて誰もいないのですから…。そんな状況でしたが、とにかく行けばなんとかなるだろうと思っていました。


拓き始めたアメリカで進む道

渡米して1か月後、オクラホマでソフトボールのワールドカップが開催されました。そこに、日本代表チームに帯同してとわの森三愛高校の監督が来ることになったのです。監督のおかげで、カリフォルニアでソフトボールの会社を運営している日本人女性を紹介してもらえることになりました。コンタクトをとると、ちょうどニューヨークに来るとのこと。アメリカでのソフトボールの道が拓き始めた瞬間でした。急遽ニューヨークからサンディエゴに拠点を移し、Southwestern Collegeへ入学。そちらのソフトボール部でコーチを務め、アメリカのソフトボールに携わることができています。

日本とアメリカの違い、その根底にあるのは?

Unnamed_3あくまでの個人的な意見ですが、高校・大学レベルで比較した場合、レベルはアメリカのほうが少し上だと感じますが、一人ひとりのスキルは日本人のほうが高く、日米それぞれに秀でた部分があると感じています。身体能力や精神的な面でいえばモチベーションは、アメリカの選手のほうが持っているかな、と。アメリカの選手は、切り替えが上手です。普段はやる気あるのかどうかわからないような選手が、試合になると計り知れない力を発揮する。日本人にはないハングリー精神ではないでしょうか。私もそうでしたが、日本人はちょっと過保護かな、と。たとえばアメリカとは、赤ちゃんの時からの育て方が違います。よちよち歩きの赤ちゃんがプールのそばを走っていても、お母さんはやめさせません。プールに落ちないか心配しながら見ていたのですが、案の定、落ちてしまったのですが、そこで初めてお母さんが助けに駆け寄るといった光景でした。また、アメリカの選手たちは、ライバルライバル、嫌なことは嫌。取り繕うことがなく、はっきりしていますね。

日本でソフトボールに励む選手たちへ

Unnamed_3_2自分のしたいこと、目標や夢を正直に伝えてほしいと思います。誰かに伝えてもいいし、紙に書くのでもいいでしょう。大きなことから小さいことまで、口に出したり全部書き出したりする。そこで、重要度もわかります。私は、「アメリカのソフトボールを知りたい!」と言っていたら、それに関係する方々に出逢え、アドバイスをもらい、アメリカでソフトボールのアシスタントコーチをさせていただいています。もし、口に出すことが苦手な人は、日常的なことを伝えることから始めてもいいと思います。私は「サングラスがほしい」と思っていたら、そういうことも口に出して言っています。すると、誰かがフレンドリーに「サングラス、ほしいって言ってなかった?」と教えてくれる。このように、何かにつながっていくのです。

もう1つは、絶対にあきらめないでほしい。私自身あきらめなかったことで、一度離れたソフトボールにもう一度携わることができました。可能性は無数にあると思います。私の場合、もし、オーストラリアに行っていたとしたら、違う道を歩いていたかもしれません。そして、この道へ導いてくれた女性に出逢わなければ、今の私はいないでしょう。出会いは大切、一期一会です。今の環境は恵まれています。悩みといえば、幸せな悩みばかりです。

今後の身の振り方については、模索中です。年齢的なことを考えると、こうした留学のチャンスは最後でしょう。資格を取りたいと思っていますが、今の学校ではその資格のための勉強はできません。トランスファーするか、コーチをしながら学ぶかなど、いくつかある選択肢を考えて進む道をみつけたいと思います。まだまだ道の途中。でも、自分の中で確固たるものとしてあるのは、留学を考えているソフトボール選手の手助けをしたいということ。私もアメリカでソフトボールを携わっていることを糧に頑張ります!

【取材・文】金木有香

【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2017年5月19日 (金)

Vol.22 野球コーチ留学:林 泰祐さん

Hayashi 戸畑高 → 関西大 → インディアナ州立大学

小学4年から大学まで野球に没頭。関西大卒業後、スポーツ大国アメリカのトレーニングを学ぶためにインディアナ州立大学へ留学。同校卒業後はテキサス州ヒューストンのトレーニング施設で主にMLB、NFL、女子サッカーのトレーニングを担当。アメリカの高校・大学野球のアシスタントコーチとしても活動し、日米の野球の違いを肌で感じる。現在は株式会社Dr.Trainingにて、ストレングス&コンディショニングコーチとして活躍中。パフォーマンスアップのみならず“一生ものの身体作り”を提供する。

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日本の野球を強くしたい その目標を達成すべくアメリカに渡った林泰祐さん。野球は辞めた時点で終わりではない。野球はどこまでもつながっていく。野球と林さんの強い思いが重なり合ってできた希少なストーリーをお聞きしました。

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志を貫くための一歩

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小学4年生から始め、生活のほとんどを占めていた野球。大学卒業後は、英語の教員免許を取って高校野球の監督をしようと考えていました。しかし、そんな思いに変化をもたらす出来事が起こったのです。ケガをして大学のトレーナールームに行った時のこと。そこで私を待っていたのは、現在働いている会社の代表である山口元紀さんでした。アメリカ留学やトレーニングの話を聞くと、とにかく新鮮!私の中で電球が光るのを感じました。気になりだしたアメリカへの留学とトレーナーという仕事。その私を渡米へと導くひと押しは、大好きな岩村明憲選手がアメリカから帰国したことを含め、日本の野球が世界に太刀打ちできないと痛感した瞬間でした。日本の野球がもっと強くなるために動きたい、その思いが私を突き動かしたのでした。

底辺からのスタートだった英語

英語はもともと好きだったので、アメリカの大学に入学するために必要なTOEFLの点数は、余裕でクリアできるだろうと思っていました。しかし、大学4年の1月、そろそろ留学へ向けて本腰を入れようと思って受けたTOEFLの点数は、なんと7点!? 大学卒業後、福岡の実家へ戻り、英語漬けの毎日を過ごすこととなりました。食事と寝るとき以外は英語、英語……。しかし、スタートが7点という底辺だったので、伸び代が大きく、どんどん上達していくことが楽しくて仕方ありませんでした。父親は「留学してトレーナーになって、それで食べていけるのか」と心配していましたが、そこは「大丈夫!」と自信ありげに答えました。それ以外は「好きなことをすればいい」と言ってくれる両親だったので、有り難かったです。そんな両親の思いにも応えたい、英語教員免許を取ったのにそれを蹴ってまでアメリカへ行く、よい意味でのプレッシャーがモチベーションを上げてくれました。

パズルの1つ目のピースは母校から始まった

母校である戸畑高校・野球部の監督が「コーチとして練習に顔を出してみないか?」と声を掛けてくださいました。監督は、私が現役時代に指導を受けた監督ではありませんでしたが、つながりを大切にしてくださる方でした。週末にはグラウンドへ足を運ぶようになり、英語だけの毎日の中で息抜きができました。また、高校のコーチをしたこの経験が、アメリカ生活を形作るパズルのピースの1つ目になるとは、この時は思いもしませんでした。

いざ、アメリカへ!どん底の3日間から這い上がれたのは野球のおかげ

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これまで1度も海外に行ったことはなく、そんな私がアメリカに飛び込んでみると、想像をはるかに超える衝撃が待っていました。まず、到着した空港で行われる入国検査で何が起こっているかわからない。何もできないし、何も話せないし、何を聞かれているのか、何を聞いたらいいのかもわからない。引き返すこともできない。頭が真っ白な状態で10分間立ちつくしていたのですが、まるで5年くらいに感じました(笑)。何とか切り抜けてようやく寮に着いたのですが、冬期の休み中で学生たちはほとんど帰省しており、人が少なくてしんみりした雰囲気。自分の部屋でブランケットをかぶり、三日三晩、何も食べずに天井だけを見つめていました。今振り返ると、かなり危ない人だったと思います(笑)。
これではダメだ!何かできることはないかと考えた時、頭に浮かんだのは、ただ一つ、野球でした。早速、大学の野球部に行って「アシスタントコーチをやらせてほしい」と言ってみたところ、即、OK!との返事が。こういうところはアメリカっぽくて、いいなあと思います。その日からすぐに練習に参加。以前、日本人のコーチがいたこともあり、日本人のよさをわかってくれている上に、コーチの中には日本を好きな人がいたので、非常によい雰囲気でした。選んで行ったわけではないですが、巡り会わせってあるものだなと感じました。
 
日本人である私は、フォームがきれい、ノックが上手いということで、重宝されました。また、渡米前に高校でコーチをしていたことも、信頼を生み出しました。あの時、監督がコーチをして呼んでくれたことがこういう形でつながったことで、私のアメリカ生活を形作るものは、あの時から始まっていたのだと実感しました。

早々にやってきた転機

Img_1238_2 現地の大学では、関西大で取った88単位が認められ、一般教養科目は取らず専門科目だけ取ればいいと言われました。トランスファー(編入学)という形で始めることになり、最初はATCを目指す科目を専攻しました。しかし、早々と転機が訪れます。その助走は、日本とアメリカの練習の質の違いを感じるところから始まりました。日本はとにかく走って身体を作りますが、アメリカはウエイトトレーニングが中心。朝の6時からチームの選手たちがウエイトルームに集まり、トレーニングをする光景は衝撃としか言いようがありませんでした。その光景を見ていくうちに、自分の中でストレングスコーチになるということがくっきりとした形となっていったのです。そうなれば、大学の専攻を変えなくてはいけません。アカデミックアドバイザーと話をして、2学期から専攻を変えることが決まりました。もっと後になってからであれば、軌道を変えることは難しかったと思います。早い段階で決断できて、本当によかったです。

文武両立を確立する秘訣

アメリカは、文武両道を達成してこそという考え方です。私は高校時代に、勉強と野球の両方をする習慣がついていたので、すんなり受け入れることができました。しかし、勉強はすればするほど時間が足りません。あの頃の1日のスケジュールは、5時半に起床、6時15分からウエイトトレーニング、その後朝食または仮眠、授業を2、3コマ受けた後、14時から17時頃まで練習、寮に帰って夕食。そこから勉強を始めて0時に寝る。夜中2時まで勉強することも少なくありませんでしたが、それでも足りないと感じるほどでした。そんな中、私が心がけていたのは、授業の内容をいかに逃さないかということ。わらかないことはその場で聞く。そんなことできるの?と思うかもしれませんが、教授に自分のことを覚えてもらえばいいのです。私は、毎日教授のところへ質問をしに行っていました。わからない授業であればあるほど、教授に接しようと努めました。そのおかげで教授に覚えてもらい、授業をスムーズに受けることができたと思います。

日本人として稀な経験

Img_1309_2大学卒業後は、マサチューセッツ州のトレーニング施設で2か月インターンをしました。その時のホストファミリーが、大学野球部にいた選手の叔母さんということで、ここでも偶然が重なりました。その後はヒューストンのDynamic Sports Trainingで8か月間のインターン。こちらの施設は、インターンでも経験者ということで即戦力として扱ってくれ、メジャーリーガーとマイナーリーガーを中心に指導をしていました。また、コーチ陣のレベルの高いパフォーマンスを見ることができたのは、大変勉強になりました。帰国後は、アメリカに行くという道を気づかせてくれた人、山口さんを訪ね、今に至っています。

ここでヒューストン時代の出来事を話したいと思います。

私にとっては、英語というより野球が共通言語。野球があるからこそ、アメリカで生活していくことができ、その生活は楽しくてしかたありませんでした。「野球のおかげ」そんな思いを感じていた頃、さらに野球が導いてくれる出来事が起こりました。私の働いているジムは高校の敷地内にあったのですが、その高校の野球部のヘッドコーチが、野球を解剖学的や運動生理学的に考える方で、とても興味深く感じていました。ある日、そのコーチから「日本の野球を教えてよ」と、突然のオーダーがやってきました。私の思うところを話したり見せたりしてみると、その場で「アシスタントコーチをやってくれ」と言うのです!

まずは、トレーニングコーチとしてチームづくりから始まり、シーズン中は1塁コーチャーを任されました。相手ピッチャーの配球を読み、盗塁のサインを出すのが役目です。この話をすると「日本人でコーチとしてボックスに立った人も珍しい」と言われます。確かに稀な経験をさせてもらったと思います。選手たちも日本の野球を吸収しようとしてくれ、バントやエンドラン、右打ちなど、私もできる限り日本の野球を伝えました。その成果なのか、スクイズでサヨナラ勝ちをした試合があったほどです。コーチとして、円陣を組んだ時の声掛けが難しかったのですが、端的に言おうと心掛けました。シンプルな言葉でも通じるもので、次第に選手たちが慕ってくれるようになっていました。ヘッドコーチのもとで野球に関われたことは、私の価値観を変え、今のストレングス・コンディショニングコーチとしてのあり方にもつながっています。

留学を考えている皆さんへ

Img_1912_2 留学した方が口をそろえて言うことだと思うのですが、悩んでいるならとにかく行ってみることです。もちろんくじけそうになることもあると思います。でも、自分の中にぶれない何かが1つあれば、大丈夫!私は、野球をはじめ、日本のスポーツのレベルを上げたいという思いがありました。この思いは留学前からぶれることなく、持ち続けています。2つ目は常に学ぶ姿勢でいること。わらないことをうやむやにしたり知ったかぶりをしたりせず、誰かに聞いてみるのです。留学生とわかれば、きっと親切にしてくれます。アメリカ人は、話好きでフレンドリー。歩み寄れば受け入れてくれます。そして、3つ目はプランニングをしっかりしておくこと。私は行き当たりばったりだったと、今振り返ってみて感じています。アメリカ生活というパズルのピースたちが運よくみつかり、上手くはまったからよかったものの、もしそうでなければ八方ふさがりになっていたと思います。プランニングといっても難しく考える必要はありません。行きたい学校をよく調べることから始めてみてください。学校選びは、有名校だからでもいいし、プログラムが特化しているからというのでもいい。あとは置かれた環境で切り替えて進んでいく適応力があれば、大丈夫です!

私自身の今後の目標は、自分の知識を活かして、日本のスポーツ界のレベルをもっと上げていきたいと考えています。そのためには、もちろん自分を成長させることも必要です。例えて言うなら、クリスマスツリー。土台となる幹や枝、葉を持つ木は変わらないけど、そこにつける飾りは取り外しも変更も可能。自分の軸となる信念は決して変わることはないけれど、状況に応じて柔軟に対応していき、また新たな技術や知識も身につけていきたいです!

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年11月28日 (月)

Vol.21 トレーナー留学:大貫 崇さん

Cimg0569桐蔭学園 → タウソン大学 → フロリダ大学大学院 → アリゾナ・ダイヤモンドバックス

神奈川県・桐蔭学園高校を卒業後、渡米。タウソン大学アスレティックトレーニング学科を卒業後、高校でヘッドアスレティックトレーナーとして働きながら06年にフロリダ大学大学院で応用運動生理学の修士号を取得。その後MLBレンジャースのインターンとして働き、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーとして勤務。理学療法クリニックにおいてアスレティックトレーナーとしてニューヨークやテキサスで計5年間勤務したのち、マイナーリーグアスレティックトレーナーとしてMLBダイアモンドバックスと契約。13年に帰国後は株式会社リーチに所属し、翌年9月より京都に投球ビデオ撮影ができるラボを開設し、アメリカの研究文献に基づく投球ビデオ分析サービスBMATを開設。日本の野球選手が幸せにプレーできるよう、野球障害予防とコンディショニングに力を入れている。


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「神様は努力をした人に『偶然』という架け橋を与える』という言葉があります。偶然は運がツイているから起こるように見えて、実は努力が引き起こしているという意味です。留学時代からその後のアメリカ生活において、不断の努力と強気と思いやりで人生の偶然を引き起こした大貫崇さん。パワーみなぎる独自のサクセスストーリーをお聞きしました。
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アメリカへの思いを突き動かした人物とは?

トレーナー留学の意志がかたまったのは、センター試験の1日目が終わった日のことでした。試験を終えて帰宅した自分を待っていたのは、ある留学業者から届いたパンフレット。心が引き寄せられるのを感じました。トレーナーを志そうと思ったのは野球部時代にさかのぼります。自分は人の身体を触わるのが得意だと感じ、その道を視野に入れていました。そして、気持ちが大きく揺れ動いたのは、神奈川大会開会式の日。そこには多くの記者に囲まれてインタビューを受ける松坂大輔選手の姿が。かたや開会式で行進すらできない自分。「彼より先にメジャーリーグに行く!!」松坂選手にインスパイアされた私の中に、揺るぎない目標が掲げられた瞬間でした。

実は日本の大学も受かっていたのですが、心は決まっていました。まずは両親に相談すると、中学生のときから寮生活だった自分を信頼してくれ、すんなりと受け入れてくれたのは有り難かったです。学校の先生は、突然の留学宣言に驚いていましたが(笑)。当時はパソコンを触ったこともなく、情報収集もままならない状況。留学業者でもらった教材で勉強を始めました。英語は全科目の中でも苦手でしたが、目標のトレーナーになるためには英語なんかでつまずいていられない、という気持ちでいっぱいでした。


渡米後に襲った不調を乗り越えて

At卒業後の5月に渡米し、まずは語学学校に入りました。おいしくないと言われていた食事は、実際食べてみると意外とおいしい。ガンガン食べていたところ、渡米2週間でなんと胃潰瘍に。短期間でここまで胃を悪くするなんて、一体どれだけたくさん食べたのでしょう!?しかし今思うと、アメリカの地に立ったものの右も左もわからない状態で、ストレスを感じていたのだと思います。大量に食べていたのも、きっとストレスからだったのでしょう。ただ、決して帰りたいとは思わなかったですし、留学中1度もホームシックにかかったことはありません。トレーナーになることしか考えていなかったので、「帰る」という選択肢は存在しなかったのです。とにかく必死でしたが、野球部の練習に比べればそれよりきついものはない、何でも乗り越えられると思いが支えとなっていました。

トレーナーになるために有効だった英語勉強法

Photo3ヶ月の語学学校を経て、4年制大学へ入学。入学に必要なTOEFLの点数をクリアするために必死で勉強をしました。入学後は、少しはわかりやすいだろうと日本史の授業をとりましたが、正直、授業の内容は理解できず……。先生が「エンペラーが××△△※※」と言うと、生徒からどっと笑いが起きるのですが、自分にはさっぱりわからず悔しい思いをしたものです。トレーナーに近づくための勉強がしたいのに、一般科目も勉強しなくてはならないのがもどかしくて仕方ありませんでした。

私は英語の勉強法として、単語帳はあまり意味をなさないと思っています。では、どのように英語を習得したかというと、聴覚障害を持つ方が言葉のトレーニングをするためのクリニックに通わせてもらいました。そこで発音やスラングをなおしてもらい、通用する英語を身につけることができました。トレーナーは高いコミュニケーション力が必要とされるため、話せるということが何よりも大切なのではないでしょうか。

「人」という財産に恵まれていた留学時代

Uf留学中、本当に悔しい思いをしたのも、やはりコミュニケーションに関することでした。フットボール選手たちが使う電動飲水器のバッテリーを、トレーニング室へ取りに行ったときのことです。そこにいた人たちに「バッテリー」「バッテリー」と伝えてもまったく通じない。15回以上言ってようやく通じたのですが「ああ!違うよー!」と相手は大笑い。「バッテリーはこうだよ」と言わんばかりにゆっくり「ba--tte---ry」と言われたときは腹立たしく、涙が出るほど悔しかったのを覚えています。しかしこの出来事を機に、よりいっそう英語をしっかりと身につけなくてはいけないという気持ちになりました。

せっかく海外に来ているのだから日本人とは付き合わない、というような意見もありますが、私は日本人との出会いも大切だと思っています。学部で同期だった日本人とは、トレーニング室では英語で会話をするというルールを決めて、とてもよい関係が築けましたし、語学学校の仲間とオリエンテーリング部を作って活動していたのですが、そこで出会った日本人女性はのちに妻となったのですから、とてもよい出会いだったと思います。こうして仲間、先生、妻、本当によい人たちに囲まれていた留学時代。よかったことはたくさんあるのですが、大切な人たちがそばにいるという環境に恵まれたことが最高だったと思います。高校時代は野球が上手か下手で人間の価値が決まるような環境の中、言いたいことも言えない自分がいましたが、アメリカでの留学生活で本来の自分を取り戻すことができたのです。

あの日誓った夢が叶った時

Uf_3大学卒業後はやるだけのことはやりたいと、フロリダの大学院へ進むことを決めました。学校を選んだ理由は、ブルーとオレンジのスクールカラーに惹かれて(笑)。しかし、ここでその後の人生を変える出会いがあったのですから運命だったのかもしれません。その出会いとは、卒業間近にテキサスレンジャースのスプリングトレーニングでインターンをしたときのこと。チームドクターに就任した先生が、テキサスに来る直前までいたのがフロリダだったのです。自分がインターンのための書類を出していることを伝えると、先生が現場に話を通してくれることに。結果、近隣の高校に配属が決まりました。実際インターンが始まると、高校生は誰がトレーナーになろうとも、素直にはならず、そこを一人でハンドリングしていくためには、自分で考えて行動していくということが求められました。コミュニケーション力がつき、実績ができたのはもちろんのこと、どこに行ってもやっていける自信がつきました。

大学院卒業が見えてきたある日、以前より知り合いだったレンジャースのヘッドトレーナーから「インターンに来るか?」「卒業したらテキサスへ来いよ」とのお誘いを受けました。このとき、松坂選手が渡米してくる1年前。あの日神奈川大会の開会式で誓った『彼より早くメジャーリーグに』という目標と夢が達成されたのです!

メジャーリーグのトレーナーに求められること

2004_2メジャーリーグにはトレーナーとして世界で一番腕が立つ人がいるのかと思われがちですが、実はそうではありません。何がすごいかというと、ずばりコミュニケーション力。選手とGMの間に立って話ができる人が求められるのです。「ある選手が故障したから別の選手を獲るためにはいくら必要」ということも的確に判断しなくてはいけない。一生懸命勉強して技術をつければいいというものではない、ということを実感しました。

インターンは1年。終わってからはクリニックに残り、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーに就くことになりました。松坂選手の渡米時、私は関係者として出迎える側。先にアメリカでやっていた者として、ちょっとした優越感を持たずにはいられませんでした。

私の心に深く響いた言葉

2006_2妻がニューヨークの大学院に通っていたため、ずっと離れて暮らしていました。夫婦としてそろそろ一緒に暮らしたほうがいいということになり、自分がニューヨークへ移り、さらにテキサスへも移りました。両方合わせて5年ほどクリニックで勤務。ビザが切れる頃、日本でいくつかお声をかけてもらっていたこともあり、帰国も視野に入れていました。しかし、突然その話がなかったことに。ビザはまもなく切れるし、さあどうしようかという状況に陥っていました。

思い切ってコンディショニングコーチをしている大学院の先輩に相談を持ちかけたところ、「アメリカに残る気はあるのか?」と親身になって受け入れてくれました。アドバイスどおりに動いた結果、MLBアリゾナ・ダイアモンドバックスからトレーナーとしてのオファーが!就任後は、新化し続ける環境の中で、とにかく学び続けなければならないと改めて感じました。そんな私の心に響いた言葉があります。

『エゴは捨てろ』

エゴがない人はいません。そこで認めつつどうしていくかということが大事。皆で仕事をうまくやっていくというような、単純なものではありませんでした。

これから留学をしようとしている人へ

Photo_2そのままアメリカで働き続けることもできたのですが、帰国を決めたのは家族という形を大切にしたかったから。日本で仕事をみつけた妻を、プロフェッショナルとして活躍できるように応援したい。やはり、家族はそばにいることが大切だと思います。

これから留学をしようとしている人に伝えたいのは、留学は目標を持ってするべきだということ。トレーナーになりたいと思ったのなら、まずどのようなトレーナーになりたいかを描くのです。そして達成するためには留学しなければいけないのかどうかを考える。「何もわからないけど行けば何とかなる」では、成功は難しいでしょう。とにかく自分と向き合うことが大事です。

私のほうは、今後日本のトレーナーのシステムを変えたいと考えています。優秀なトレーナーはたくさんいるのに、今は活躍する場が少ない。職業として活躍できる場を増やすことが目標です。また、アメリカで暮らして感じたのは、日本人は自己肯定感が低いということ。野球ができなくなったら自分終わったなと思ってしまいがちなんです。でも、野球はできないけど違うことはできる。セミナーなどを通じて、自分を肯定することへの理解を深める活動していきたいと思っています。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年8月 3日 (水)

Vol.20 ソフトボール留学:五十川智美さん

とわの森三愛高 → 早稲田大 → ニュージーランド・HVセインツ

P2歳からのスピードスケートを始め、小学生から中学生までスケート競技を9年間続け日本代表選手にも選出される。小学6年時には陸上大会(800m)、中学生からはソフトボールも同時にプレーし、名門・とわの森三愛高校では主将を務め国体3位/インハイ3位の輝かしい成績を残す。早大時代にもチームの中心選手として関東大会選手権2連覇、社会人チーム時代は国体3年連続出場を達成。ニュージーランド時代はリーグ戦で打率.450の高打率で見事MVPを獲得。現在は競技者としての挑戦を続ける一方で、スポーツと一生向き合っている環境作り、ジュニア育成に注力している。北海道十勝音更町出身。


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大学時代まで打ち込み続けたソフトボールを、就職を機に一度は離れようとした五十川さん。しかし、ソフトボールと自分は切り離せない、と夢を追いかけてニュージーランドへ渡りました。日本とニュージーランドを経験した五十川さんのソフトボール愛にあふれる貴重なお話をお聞きしました。
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切っても切れないソフトボールへの思い

全国1位を目指して、ソフトボールに全力を尽くした大学時代。結果は3位でした。それを受けて卒業後は「もう、ソフトボールから離れよう。ソフトボールのない生活をしよう」と心に決めました。東京から地元・北海道に戻り、病院に就職。しかし、一度はソフトボールから離れたものの、気づけば、誘っていただいたクラブチームでソフトボールをしていました。朝から晩まで仕事をした後や週末にするソフトボールは、何よりもの息抜き。やっぱり私の生活には、ソフトボールは欠かせないものでした。

私を変えてくれたソフトボール

1病院勤務の3年間、再び携わったソフトボールが私を変えてくれました。自分にできることは、選手としてだけではない。指導者としてもスポーツやソフトボールを通じて社会に貢献できるのではないか、と考えるようになったのです。そこで「できることはまだまだある。夢をあきらめるのは、まだ早い」と、私の挑戦心をかきたてたのが、ニュージーランドへの留学でした。

大学時代は海外へ行こうと思ったことはなかったので、まずは、情報収集から準備を始めました。そして、肝心の英語はというと……、かなり苦手。これまでスポーツに打ち込んできたため、しっかりと勉強をしたことがありませんでした。基礎からやり直しです。こうした期間を経て、ある程度渡航の準備が整ったとき、ようやく両親に話をしました。「ニュージーランドへ単身ソフトボール留学をするなんて」と最初は驚いていましたが、私が自分で決めたことは何を言っても止めることはできないと知っている父と母。「頑張っておいで」と送り出してくれました。


いざ!ニュージーランドへ

3ニュージーランドへは、ワーキングホリデーのビザを取得して渡航しました。第一印象は、スポーツや運動が好きな人が多い!ということでした。街中で走っている人、エクササイズをしている人がたくさんいて、テンションが上がりました。ただ、物価の高さが困りもの。コーラ1本500円という感覚にはまいりました。また、小腹が空いたときに「ちょっと食べたいな」と思っても、日本のおにぎりみたいな軽食がありません。食べるならしっかり食べるというメニューしかなかったのも、文化の違いを感じた点でした。しかし、ほとんど英語ができず「とりあえず行ってみよう!」という状態で渡航した私を支えてくれたのは、何よりもニュージーランドの人のやさしさでした。道を尋ねると、ただ説明をするだけでなく、現地まで一緒に行ってくれたり、銀行での手続きも親切に対応してくれたりしました。

ソフトボールにおける日本とニュージーランドの違い

海外でソフトボールをして感じたことは、日本は世界で最高レベルだということ。技術で日本に及ぶ国はないと自信を持つことができました。しかし、その技術に達してはいませんが、ニュージーランドのソフトボールパワーには衝撃を受けました。日本は技術を教えられてこそですが、ニュージーランドの若い世代は、その技術を教えてもらうこともないのに、必死でボールに食らいついたりヘッドスライディングをしたりしているのです。メンタルの強さと筋力の高さには脱帽でした。これに技術が加われば、大きく変わるのではないかと思います。


言葉の壁を乗り越えて

2こうしたニュージーランドのパワーに日々触れながら、1年間の生活を終えました。チームに日本人は私一人。ソフトボールをしているとき、日本語は一切使いませんでした。振り返ってみると、やはり、最初は言葉の壁が高かったなと思います。コーチやチームメイトの言葉をすべて理解することができなくて、申し訳ないという気持ちで一杯でした。言ってくれた言葉に対して、自分ももっと返すことできれば……ともどかしさがつのりました。半年ほどが過ぎ、言いたいことを頭で整理してから話すようにすると、徐々に馴染むことができました。コンプレックスを持っていた英語を、もっと勉強したいと思うようになったほどです。

ニュージーランドが教えてくれたこと

メンタルの面では、ニュージーランドの選手から多くのことを学びました。それは「すべてを楽しむ」ということ。たとえば、これまでの私の場合、試合で1打席目、2打席目がダメで、3打席目に打ったとしても、「1打席目から結果を出さなくてはいけなかった」と思っていました。さらに、チーム内にも「あそこで打っていたらこんな展開にはならなかったのに」という雰囲気が流れます。でも、ニュージーランドの選手は、それまでの結果や展開がどうであれ「打ったものは打ったからいいでしょ!成功は成功!」と言うのです。そして、チームメイトも一緒に喜ぶ。これこそが選手にとって必要なメンタルであり、チームのあるべき姿だと思いました。こうした気持ちや雰囲気が次の試合によいふうにつながっていく。私はこれを「ニュージーランドマインド」と呼んでいます!

これから海外を目指す皆さんへ

4最初は「行きたい!」という気持ちが前面に出て「楽しみ」が先行すると思います。それからさまざまなことを調べていくうちに、いつの間にか「不安8割、楽しみ2割」という気持ちになるのではないでしょうか。でも、実際に現地に行くと、また、数字が逆転します。不安を乗り越えて挑戦すれば、きっとうまくいくはず!留学を迷っているなら、ぜひ、実行にうつしてほしい。なぜなら、人生が変わるから。もちろん変えるのは自分なのですが、たくさんのきっかけをもらうことができる。人生の勉強だと思って、挑戦してください。

私自身は、ソフトボールや日本というくくりにとらわれるのではなく、スポーツ全体をグローバルな視点で見ていきたいと思っています。また、選手としてだけではなく、指導やコーチングも行っていくつもりです。今はソフトボール人口が減っているのが現状。しかし、高い位置にのぼれないのならやらないという思考ではなく、ソフトボールがしたいという気持ちを大切に、もっと広い視点で考えられるソフトボール界にしていきたいと考えています。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年4月27日 (水)

Vol.19 マネジメント留学:山根耕治さん

神港学園 → 大阪学院大 → ジョージブラウン・カレッジ大学院

12988159_10156753912475398_145315_2強豪・神港学園高校では2年生時に甲子園出場。卒業後、大阪学院大学へ進学するも、怪我のため野球を断念。在学中に母と行ったアメリカ旅行で英語力の必要性を実感し、留学を志す。その後、カナダの大学院へスポーツマネージメント留学。卒業後、留学コンサルタントを経て、現在はカナダ・トロントにあるセンテニアル・カレッジの留学生担当として活動。また自社ブランドを立ち上げ、カナダ産のメイプルを使った特製のバットを生産し、カナダ野球の更なる発展へ尽力している。


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英語力ゼロからのスタートで、カナダの大学院で学び、就職、そして起業までたどり着いた山根さん。そこには、強い意志とたゆまぬ努力がありました。海外で野球に携わる仕事をするという夢を現実に変え、さらなる目標へ向かう力強いお話をお聞きしました。
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野球漬け人生のはじまり

私の野球人生のはじまりは、小学1年生の時でした。地元は甲子園が近く、野球が盛んな地域。大きなグラウンドがあり、野球をするために子どもたちが集まって来ていました。私も放課後には、毎日そのグラウンドに行って練習をし、小学校低学年にして、まさに野球漬けの日々。春夏は必ず甲子園に足を運び、野球関連のビデオをすり切れてしまうほど観ていた私の姿に、両親は「勉強もこれくらい熱心にやってくれるといいけどなあ」と言っていたものです。すべては野球のために生活をしていたと言えるでしょう。

震災を乗り越えて

12980572_10156753902030398_18539772小学校で一緒に野球をしていたメンバーとともに「チームを強くしよう」と、地元の中学に進学。さらに野球色に染まった時間を過ごし、高校進学を控えた中学3年の冬、阪神淡路大震災が起こったのです。自分も含め野球部のメンバーの多くが被災。これまでの価値観を変えるほどの大きな出来事であり、この日を境に「生きている」ではなく「生かされている」と思うようになりました。「1度きりの人生。やりたいことを思い切りやろう」という思いで、甲子園を目指せる高校への進学を決めました。私の入学した年は、3年計画でチームを強くするという方針のもと、関西・中国地方を中心にレベルの高い選手が集まって来ていました。「この中で3年間野球を続けていければいい」と思うほど、周りのレベルは高く、毎日の練習は長く厳しいものでした。私は左投げが重宝され、バッティングピッチャーを務めていました。2年生時に甲子園出場。震災から2年目の年で、神戸復興の願いを込めて、多くの人が応援してくれました。練習のほかには、監督さんの教えであるボランティア活動も頻繁に行っていました。

ピンチもチャンスに変えてみせる

推薦で大学進学が決まり、入学を控えていたある日、「人生を変えた」と言えるアクシデントが起こりました。肩をこわし、推薦入学を断念。野球の道が閉ざされ、目標を失ってしまいました。入学後は、アルバイトに精を出す毎日。そんな大学生活の中、3年生の時に、母とアメリカ旅行に行ったのですが、これまで興味のなかった英語の必要性を強く感じたのです。英語ができれば世界が変わるだろうと思うようになりました。そこで、留学を決意。英語を自由自在に話せるようになり、野球に携わる仕事がしたいと考えました。もし、肩をこわさずに、あるいはこわした肩にムチを打って野球を続けていたら、旅行はできなかったと思うので、肩をこわしたアクシデントも悪いことばかりではなかった。人生を別のよい方向に変えたと言っても過言ではありません。

トロントへ語学留学

12992749_10156753908410398_16674116大学卒業後、トロントへ1年間の留学。トロントを選んだのは、大学教授をしている叔父からのすすめでした。まずは、語学学校からのスタート。クラスは、ビギナークラスなのですが、学校の担当者がそのクラスに入ることさえもためらうほどでした。この頃の英語のレベルは「How are you?」と言われて「Yes!」と答えていたくらいですから(笑)。しかし、せっかく英語を話す環境にいるのだから、学校にいる日本人と話す時にも頑張って英語で話すようにしていました。すると、その日本人たちが言うのです。「コウジは英語が話せないから、あとから日本語で話そう」と。悔しくて悔しくて「なにくそ!」と奮起。学校が終わったら図書館に通うようにし、閉館までびっちり勉強をするようになりました。この頃行っていたことの中に、1日5つの単語を覚えるというものがありました。1週間で25個、1か月100個。こうして徐々にボキャブラリーを増やしていきました。机上の勉強が軌道に乗ってきた頃、「やはり、会話をしなくては」と考え、勉強場所をコーヒーショップへ変更。道から窓越しに姿が見えるので、同じ下宿の仲間がみつけて話し掛けてくれるようになりました。自分自身も「次はこれを話してみよう」と、会話を楽しめるようになり、コミュニケーション力が上がっていきました。

進むべき道を歩むために

1年間の留学生活が終わる頃には、今後、自分がやりたいことが見えてきました。アメリカやカナダでは、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーなど、スポーツでたくさんの人を集めることができます。「すごい!なぜこんなに人を魅了できるのか」をいう思いから、スポーツマネージメントをきちんと学んでみたいと考えるように。そのためには、まず、資金づくりです。帰国して2年間、仕事をいくつか掛け持ちして、留学の資金をためました。次は、ワーキングホリデーでトロントへ。最初の1年は、仕事中心。2年目は大学院に入るための英語の勉強をして、3年目についに、トロントの大学院へ入学しました。少し時間はかかりましたが、どうしてもスポーツマネージメントの勉強がしたいという気持ちと、野球に携わり続けることが高校の監督さんへの恩返しだという思いが、自分を支えてくれました。

カナダに残る決意

大学院卒業後は、自分の留学経験を活かせる仕事をしたいと考え、カナダにで留学のサポートなどをする仕事に就きました。この仕事を7年間続けたのち、永住権を獲得。これまでやってきたことが実を結んだようで嬉しい反面、少し困ったことも起こってしまいました。仕事で独立するという話がある中、信頼していた人とうまくいかず、周りの人からも誤解されてしまったのです。「もう、日本に帰ろうかな」と思っていたとき、1番信頼していた人からも「縁を切る」と言われてしまいました。しかし、ここで事実と自分の気持ちをきちんと話さないといけないと思い、すべてを話すと、その人は「悪かった。これからは自分が君を全力で守る」と理解してくれました。この出来事があったおかげで、もう一度、カナダで頑張ろうという気持ちになれたのです。

巡ってきた大きな転機

12987928_10156753904980398_139937_3ここで大きな転機がやってきます。まず、私には政府関連の機関で仕事をしているカナダ人の知り合いがいました。彼女の3人の息子さんたちが野球をしているということもあって、普段からよく話をする職員の方でした。ある日、その職員の方のところに1件の電話がやってきます。電話の主は、サンダーベイ国際野球連盟のエグセクティブディレクターの方。トロントでU18の国際野球大会を開催しているが、日本のチームが参加していないため、ぜひ、参加するように呼びかけたいということでした。電話をとった彼女は真っ先に「山根さんの顔が浮かんだ」と言って、私をその連盟のディレクターに紹介してくれました。それから話が進み、私もディレクターの方が出席するグループミーティングに参加。スポンサー探しなら役に立てないかもなあと思いながら帰っていると、そのディレクターの方とたまたま同じ電車に乗ることに。すると、当時、トロントのメジャー球団・ブルージェイズで活躍していた川﨑選手のインタビューをするので、通訳できてほしいと言うではありませんか。私としては、素晴らしいチャンス。インタビューに同行させていただき、後日、ボストン・レッドソックスで活躍している上原投手ともお話する機会をいただきました。

出会いが生んだ新たな道

ディレクターの方は、さらに、おもしろい話を運んで来てくれました。バットを作っている日本の会社が、材料になるメープルの木を視察するためにカナダへやって来るから、ぜひ、会ってほしい、と。私自身も、たまたまカナダに木材工場をやっている知人がおり、話がどんどんよい方向進んでいきました。せっかくこうした出会いがあったのだから、仕事をつなげていきたいと考え「日本にある要らないバットをカナダで売ることはできないかな」と思っていたところ、なんと、日本から来ている社長が、同じことを提案してくれたのです。早速、立ち上げのために日本に帰国。カナダで会社をつくることになりました。さらには、大学に野球部をつくる話まで進むことができ、これまで目指してきたものが一気に花開いた時でした。

海外を目指す皆さんへ

12988159_10156753912475398_14531504最初はまったく英語を話せなかった私が、海外でここまでやって来れたのは、人との出会いを大切にしてきたからだと思います。もちろん、成功するためには英語力も必要ですが、それ以上に大切なのが人との出会いではないでしょうか。そして、日本にはこれまで一緒に野球をしてきた仲間がいたから、どんな時も頑張ることができました。これから海外へ行こうとしている皆さんにお伝えしたいのは、海外では自分から動かなくては何も始まらないということです。動くというのは自分でどんどん進んでいくことのように思えますが、人に頼ることも動くことです。私も日本にいたら意地を張って、誰も頼らずにいたかもしれません。でも、海外に来て自分の弱さを知りました。それに気づいた時、人の弱さも受け止めることができたのです。そして、道に迷った時は、自分の思いをまわりの友人に伝えてみてください。夢でも初めに持った思いでもいい。話すことで迷いそうになった道が、もう一度見えてきます。高校の監督からいただいた大切な言葉があります。「あせらず、あきらめず」。監督就任35周年記念の色紙に書いてあった言葉なのですが、私の座右の銘になっています。この言葉をモットーに、今後はトロントにバット工場を作ろうと動いています。工場ではオーダーメイドのバットを作り、そこで試し打ちや練習もできる施設をつくることが目標です!


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年3月12日 (土)

Vol.18 大学野球留学:早川良太郎さん

成田高→カンザス大B25aa89c

名門・成田高校を卒業後、アメリカへ視察に行ったのがきっかけで大学野球留学を決意。全米屈指の野球強豪校・カンザス大学に入学するも英語力不足で1年間は野球部のマネージャー活動を強いられる。その後、見事メンバー入りを果たし4シーズン投手として活躍しチームに大きく貢献した。卒業後は日本へ帰国し、大手企業に勤めた後、父親の経営する会社の取締役に就任。現在はスリランカをはじめとする東南アジア圏の野球普及活動に尽力している。



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アメリカ大学野球のトップで輝いた日本人選手がいました。その名は、早川良太郎さん。大和魂を持ちながらアメリカ色に染まった留学時代。選手として、日本人として、大切なことは何か、貴重なお話をお聞きしました。
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アメリカ行きを決めた出来事

野球漬けの高校3年間を経て、私が選んだのはアメリカ留学でした。大学進学を控え、日本の大学のセレクションも受けていたのですが、合格はもらえず……。日本にこだわらず、アメリカに行くのもいいのではないか。同じ野球部の中に、アメリカ留学を目指している選手がいたことに刺激を受け、また、以前、父が仕事で駐在していたことで思い入れがありました。さまざまな思いが重なり、アメリカへ心が動き出したとき、さらに私の心をつかむ出来事が起こります。アメリカの大学野球部へ見学に行ったのですが、まず、なんて球場がきれいで大きいのだろう、と感動しました。次に、メジャーリーグ観戦。当時、マリナーズでプレーをしていた佐々木主浩投手が、クローザーとしてビシッと締める姿を観て、心底しびれました。そんな興奮冷めやらぬ翌日、驚くべきことが起こりました。スーパーへ買い物に行くと、なんと佐々木投手がいるではありませんか。握手をしてもらった瞬間、心が決まりました。

必要なのは英語力とアピール力

248986_10101047080129989_1825893008アメリカ行きを決めたからには、英語力をなんとかしなくてはいけません。この時点で私の英語のレベルは、自己紹介もできないレベル。留学に必要なTOEFLの勉強をする塾に通い始めたのですが、1回目のTOEFL試験のことは、今も忘れもしません。なんと、リスニングテストがいつ始まったのかわからなかったのです。父には「アメリカの4年制大学で野球をするということが、どういうことなのかわかっているのか」と言われ、高校の先生には、英語力について「相当頑張らなくては難しいよ」と言われたことで、お尻に火がつきました。

必死に勉強をし、インターネットでアメリカの大学野球についての情報を調べました。そして、高校卒業後の6月に渡米。語学学校に通いながら、大学の野球部が練習している場所を探して、自分を売り込みに行きました。そんな私のことを監督がおもしろがってくれ「今度、グラウンドに来なさい」と声をかけてくれるようになりました。実際に行ってみると、ブルペンで投げさせてくれると言うのです。その日はすこぶる調子がよく、力を発揮することができました。翌日からチームに合流。朝6時には朝練に参加していました。

充実した環境で野球と勉強ができる幸せ

1923563_561499169169_1130_nチームに帯同でき、思う存分野球ができるようになりましたが、ここで1つ問題が浮上。私はまだ大学の学生ではないので、正式な選手としての資格がないのです。せっかくチームに入れてもらえたのだから続けたい。この思いを伝え、父も交えて監督と相談したところ、1年間はマネージャーとして参加することになりました。1年後は何としても大学に入らなくてはいけない。気合いで語学学校を卒業し、晴れて正式な選手としてチームの一員となった日は、とてもすがすがしい気持ちでした。私の進んだ大学は、学校からのサポートが手厚く、ユニホーム、道具、遠征費など、すべて大学が負担してくれました。驚いたのは、私はコンタクトレンズをしていたのですが、それも野球に必要なものだからということで、費用が出たことです。また、サポートは野球に関してだけではありません。勉強のほうも頑張れるようにと、チューターを3人、さらには家庭教師までつけてくれました。「リョウタロウが落第しないように」と(笑)。もちろん、野球をする環境も最高でした。ロッカールーム、室内練習場、トレーニング室など、非常にきれいで充実していました。野球と勉強の両立は大変でしたが、こんなに充実した環境で野球ができ、留学生活が送れることは、本当に幸せだったと思います。

あの日あの時に呼び寄せたチャンス

Ryotarohayakawakuksu01_2選手としてようやくチームに入れたものの、チームメイトや監督やコーチとうまくコミュニケーションがとれず、あまり積極的になれずにいました。最初もハワイ遠征も一緒に行ったのですが、出番はなし。しかし、チャンスが巡ってきたのです。シーズンは終盤にさしかかった頃、その年の1位になった強豪チームと対戦。先発ピッチャーが1回表で4点を取られてしまい、ピッチャーを交代させなくてはいけないのですが、この日は金曜日。夜の試合と土日の試合のために、チームとしてはよいピッチャーを温存させておきたい。そこで、私に声がかかりました。2回から投げて、9回シャットアウト。それまでは長くて4イニングしか投げたことがなかったのに、いきなりこんなに長く投げシャットアウトしたので「この日本人すごいぞ!」と言われ、学内の新聞に大々的に載ることに。この日以来「リョウタロウはいける!」ということで、大事な場面で投げさせてもらえるようになったのです。この頃の私は、言葉が分からない中、野球と勉強の両立や試合に出られないもどかしさで精神的にまいっていました。このままでいいのか……。何かを打破したい気持ちでトレーニング方法を変え、基本に帰ってシャドーピッチングをするようにしました。すると風向きが変わり、チャンスの日を呼び寄せたのでした。

我が野球人生に悔いなし

260583_10100919952140499_38798901_2大学の野球部時代を振り返ってみると、走馬灯のように駆け巡ります。練習のお手伝いや雑用をしながら野球をしていたマネージャー時代。チャンスをたぐり寄せた1年生。サマーリーグに参加しましたが、クローザーとして多くの試合に投げ、肘をこわしてしまった2年生。疲労骨折と診断され、手術をしてリハビリとトレーニングに費やした3年生。カムバックした4年生。自分としては肩の調子は非常によいと感じていましたが、チームは若返りをはかっており、出番は少なくなりました。最上級生ともなれば、後輩の面倒を見て、チームを引っ張っていかなくてはいけません。

ドラフトにかからなければ、もう完全燃焼。最後まで野球をやりつくし、自分で決めて進んだ道をまっとうしたと感じました。マネージャーから始めて5年間。その生き方を後輩たちが見て慕ってくれました。最初は言葉が分からず苦労しましたが、アメリカ人になろうという思いで野球をしていました。自分が自分に言い聞かせていた約束があります。それは、決して誰の悪口も言わないこと。明るさやひょうきんさをウリにしていると、チームメイトとファミリーになることができました。コーチともよい関係でした。ボール磨きやグラウンドにトンボをかける私の姿を見て、驚いていたようです。アメリカの選手たちは、そのようなことは専門のスタッフに任せ、自分たちではしないからです。こうした5年間を経て、引退試合のあとのスピーチでは……まずは笑いをとりました。これが大事です。そして、締めくくりはこれまでのすべての思いを込めて、感謝の気持ちを伝えました。

これから海外を目指す選手へ

10338868_10102040922601709_579729_3日米の野球の違いは、まずアメリカは、練習にメリハリがあると感じました。スケジュールが細分化されており、プルペンも選手たちの授業のカリキュラムに沿って使う時間が決められていたほどです。これから海外を目指す選手には、現地のトレーナーさんの言うことをきくのも大事ですが、日本のトレーナーさんと話をするようにしてほしいと思います。というのは、私自身、アメリカのトレーニングにどっぷりはまってしまい、無理に身体を大きくしてしまったからです。元々アメリカの選手とは体格が違います。それなのに同じものを同じだけ食べていては、無理が生じてくるのは当然です。日本のトレーナーさんに診てもらえば、無駄な筋肉がついていることもわかったはず。定期的にきちんとメンテナンスをしていれば、故障はしなかったかもしれません。次に、大和魂を捨てないでほしい。その上でアメリカの生活や仲間に柔軟に対応し、馴染んでいくようにしてください。そして、やりたいことや思いを口に出してみることは大事です。たとえ今の時点で英語ができなくても「将来、チャンピオンになる!」という思いだけでも、英語で語ってみるのがいいですよ!

11698489_10153445121779723_81594906私自身、アメリカに行ってからは、すべては野球のために動いていました。勉強との両立も試験をパスすることも。「すべては野球のため」それは今も変わっていません。今はスリランカの野球事業に携わっています。活動場所はスリランカに移りましたが、現地の野球発展に尽力したいと思っています。さらには東南アジア全体に野球が普及、発展していくように、できる限りのことをしていきたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年2月24日 (水)

Vol.17 トレーナー留学:大久保 研介さん

Wbc_6_2豊橋南高→アリゾナ州立大

高校時代にメジャーリーガーのコンディショニングトレーニングに興味を抱き卒業後に渡米。スポーツ名門校・アリゾナ州立大学に入学し最先端のトレーニング理論を学ぶ。卒業後は日本の学校で鍼灸の資格を取得したのち、台湾プロ野球チームのトレーナーに就任しプロトレーナーとしてのキャリアを開始。チームでの活躍が評価され、日本人としては初となるWBC台湾代表チームのトレーナーに任命された。2015年からは中日ドラゴンズなどで活躍したチェン・ウェイン投手(現MLBマーリンズ)の専属トレーナーとして活躍中。

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アメリカではトレーナー、日本では鍼、それぞれの勉強と資格取得。そして、台湾プロ野球チームに就いたのち、メジャーリーガーの専属トレーナーとなった大久保研介さん。「これだ」と決めたら前進あるのみ。1つの台湾プロ野球チームを変えたと言っても過言ではない、貴重なお話しをお聞きしました。
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原点は身体への思い

アメリカという場所に気持ちが向いたのは、小学生の頃でした。当時、自分がアメリカで勉強や仕事をすることになるとは思ってもいませんでしたが、テレビで放送され始めたメジャーリーグの試合を観て、そのダイナミックさに心惹かれたことを覚えています。その後、中学、高校と野球を続け「うまくなるにはどうすればよいか」と、常に考えていたものの、チームにはトレーナーがおらず、相談はできません。部活が終ったあと、スポーツジムに通っていましたが、ここでも専門的に教えてくれるところまではいかず、自分で本を買って勉強をしていました。日本ではひたすら走ることがトレーニングのようになっていますが、ほかにもトレーニングの方法はあるのでないかと考え、専門的にトレーナーの勉強がしたいと思うようになったのです。情報収集をすると、スポーツについて学ぶには、アメリカが最適だということがわかりました。仮に、ロシアがこの分野に関して進んでいたのであれば、迷わずロシアへ行っていたと思います。

寮と図書館を往復する日々

Photo高校卒業後に渡米。アスレチックトレーナーの資格が取れる大学を選んだのですが、なんと、入学した年に認定校ではなくなってしまうという、予期せぬ出来事が。入学後半年で転学を余儀なくされてしまったのです。次は、規模が大きくスポーツ生理学が有名なアリゾナ州立大学へ入学しました。アリゾナ州立大学は、野球だけではなく、アメリカンフットボール、アイスホッケー、バスケットボールなど、主な大学スポーツが強いということも選んだ理由のひとつです。奨学金をもらい、希望どおり入学できたものの、やはりアメリカで名の通った大学。最初の試験で初めてのBを取ってしまいました。「うかうかしていられないぞ」と覚悟を決め、そこからは家と図書館を往復する日々。授業は、先生がパソコンを使ってどんどん進めていくため、予習をしっかりし、授業前には全部覚えるつもりでのぞんでいました。しかし、それでやっと6~7割わかる程度。その頃の生活は、始業前に2時間図書館で勉強し、次の授業の合間にも図書館、さらに放課後も図書館。とにかく、授業と寝る時間以外は図書館にいるような毎日でした。教科書の内容が頭に入っており、見なくても何ページに何が載っているかがわかっていたほどです。こうして、厳しい評価の中、なんとかギリギリで生き残ることができました。

進むべき道が開けた時

3アリゾナの夏は暑く、体調管理が難しかったです。油断をすると熱中症になりかねない。私自身は、食生活の乱れから湿疹ができてしまったこともありました。こうして慣れない土地で孤軍奮闘するうちに、なんとなく将来が見えてきてもいました。そんな中、今後の進路を決める転機が訪れたのです。全米から選手を大勢集めて試合をする、メジャ-リーグのショーケースを受けることになりました。高校の部活を引退してから本格的に野球をしていなかったので、まずは身体づくりからしなくてはいけません。思うように動かせない部分があるのを痛感していたところ、日本から来たスタッフメンバーの中に、鍼の資格を持っている方がおり、施術をしてもらいました。そうするとびっくりするほどよく効き、一発で治ったのです。この技術はすごい!目からうろこでした。鍼とコンディショニングを融合させれば、ケガのない身体がつくれるのではないか。卒業後は、日本に戻って鍼の勉強をしよう。はっきりと進むべき道が決まりました。帰国後は、アルバイトをしながら学費を稼ぎ、3年間かけて鍼の資格を取得しました。よく「アメリカの大学を卒業したのに、日本でさらに3年もかけて新たな勉強をするなんて大変だったでしょう」と言われるのですが、自分の力を試せると思うと勉強はおもしろく、大変だとは思いませんでした。技術があれば、きっと世界で勝負ができる。アメリカで成功したければ、アメリカ人と同じスキルを持っていてもダメ。プラスαが必要。このような思いが私を奮い立たせてくれました。

台湾プロ野球チームのトレーナーに就任

530932_118478824979202_412899926_n鍼の資格を取得後、最初につかせていただいたのは、プロゴルファーの方でした。常々プロの選手のトレーナーになりたいと思っていたので、目標の一つを達成することができました。自分が学んできたことをそのまま適用するのではなく、選手と話し合い、状態や希望に合わせて進めていきました。こうしてプロゴルファーのトレーナーとして1年が過ぎたころ、大きな転機が訪れました。台湾プロ野球チームから声が掛かり、トレーナーとして就くことになったのです。実際、チームに入ってみると、トレーニングの方法が日本と似ていました。例えば、ひたすら走る、キャンプが長いなどです。そして、私が就いた当初、ケガ人が多いことに驚きました。痛かったら痛み止めを飲めばいい、身体がかたくなるからストレッチはしない、というような少々偏った考えをしている選手もいました。これではせっかく身体を鍛えたり練習をしたりしても、ベストな状態でパフォーマンスができていない。まずは、全員が同じメニューをすることをやめよう。選手一人ひとりに合わせたメニューを考えるようにしました。具体的な治療法を伝えることで、選手たちの考え方も柔軟になっていきました。選手一人ひとりとのコミュニケーションを大切にし、医者、トレーナー、選手の連携がきちんと取れるようシステムを整えました。その結果、やりやすくなったと監督や選手からも評価され、WBCの台湾チームのトレーナーとして呼んでもらえることになりました。最初は自分のチームの選手を診ていたのですが、要請があり、ほかのチームの選手も診るようになりました。2009年のWBCアジア予選、東京ドームで行われた台湾と日本の伝説の試合時、私は台湾側にいたのです。これも不思議な縁ですね。

台湾出身メジャーリーガーの専属トレーナーとして

2015年より、台湾出身で、元中日ドランゴンズ、現在メジャーリーグのマーリンズでプレーをしているチェン投手専属のトレーナーをしています。チェン投手がトレーナーを探していることを聞き、テストを受けて採用されました。個人のトレーナーなので、チームに帯同できるときばかりではありません。ホテルに行ったり自宅に行ったり臨機応変に対応をしています。2015年のシーズン、チェン投手は11勝をあげ、防御率もよく、チームに貢献しました。トレーナーとして役に立てているのなら、本当に嬉しい限りです。

日米台湾の野球やトレーニング法を経験して

579299_172332392927178_806447764_n日米台湾の野球を見て、アメリカはコーチがあまり干渉をしないということに大きな違いがあると感じました。日本は選手主体というより、監督やコーチがいろいろなことを決めているように思います。また、日本や台湾は走ることが多いですが、アメリカはウォーミングアップにかける時間や内容が違います。選手たちは、自分で身体のことをきちんと考えているのです。アメリカはトレーニングそのものが変わってきています。以前はウエイトトレーニング中心でしたが、今はシステム化が進んでいます。というのは、いつなぜこれをするのか、理由がはっきりとしているのです。さらに、そこに栄養に関することも加わります。そして何よりアメリカのよい点は、プロとアマの壁がないこと。私がインターンをしていたジムでは、小学生からトレーニングをしていましたが、同じジムをプロの選手も利用していたので、間近に憧れの選手を見ることができていました。このような環境の中、子どもたちは夢を持って、トレーニングやプレーをすることができるのです。

海外を目指す人に伝えたいこと

Img_1769_3これから海外を目指す選手に伝えたいのは、年齢はただの数字だということです。もうこんな歳だからとか、まだ若すぎるから、ということは考えないでほしい。イギリスの政治家で首相も務めたスタンリー・ボールドウィンという人のこんな言葉があります。「志を立てるのに遅すぎることはない」。自分が行こうと思ったときが行くべきときなのです。自分の中でできない理由を作ってしまうことほど、もったいないことはありません。何事も最初の一歩がなければ二歩目はない。アクションを起こすのみです。自分が歩く道は自分でつくるつもりで、飛び込んでいってください。たとえ言葉が通じなくても、熱意があれば思いは通じるものです。身体に関することは、常に変化していきます。私自身も日々、勉強していかなくてはいけないと思っています。自分自身のアップデートとも言えますね。今度は、アメリカのスポーツ医学に特化した鍼の資格取得を目指します。アメリカのチームは、まだ鍼の施術をしているところは少ないので、もっと広めていきたいと考えています。私が初めて鍼をしてもらったときに受けた衝撃を、できるだけ多くの選手に味わってもらいたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

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