桐蔭学園 → タウソン大学 → フロリダ大学大学院 → アリゾナ・ダイヤモンドバックス
神奈川県・桐蔭学園高校を卒業後、渡米。タウソン大学アスレティックトレーニング学科を卒業後、高校でヘッドアスレティックトレーナーとして働きながら06年にフロリダ大学大学院で応用運動生理学の修士号を取得。その後MLBレンジャースのインターンとして働き、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーとして勤務。理学療法クリニックにおいてアスレティックトレーナーとしてニューヨークやテキサスで計5年間勤務したのち、マイナーリーグアスレティックトレーナーとしてMLBダイアモンドバックスと契約。13年に帰国後は株式会社リーチに所属し、翌年9月より京都に投球ビデオ撮影ができるラボを開設し、アメリカの研究文献に基づく投球ビデオ分析サービスBMATを開設。日本の野球選手が幸せにプレーできるよう、野球障害予防とコンディショニングに力を入れている。
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「神様は努力をした人に『偶然』という架け橋を与える』という言葉があります。偶然は運がツイているから起こるように見えて、実は努力が引き起こしているという意味です。留学時代からその後のアメリカ生活において、不断の努力と強気と思いやりで人生の偶然を引き起こした大貫崇さん。パワーみなぎる独自のサクセスストーリーをお聞きしました。
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アメリカへの思いを突き動かした人物とは?
トレーナー留学の意志がかたまったのは、センター試験の1日目が終わった日のことでした。試験を終えて帰宅した自分を待っていたのは、ある留学業者から届いたパンフレット。心が引き寄せられるのを感じました。トレーナーを志そうと思ったのは野球部時代にさかのぼります。自分は人の身体を触わるのが得意だと感じ、その道を視野に入れていました。そして、気持ちが大きく揺れ動いたのは、神奈川大会開会式の日。そこには多くの記者に囲まれてインタビューを受ける松坂大輔選手の姿が。かたや開会式で行進すらできない自分。「彼より先にメジャーリーグに行く!!」松坂選手にインスパイアされた私の中に、揺るぎない目標が掲げられた瞬間でした。
実は日本の大学も受かっていたのですが、心は決まっていました。まずは両親に相談すると、中学生のときから寮生活だった自分を信頼してくれ、すんなりと受け入れてくれたのは有り難かったです。学校の先生は、突然の留学宣言に驚いていましたが(笑)。当時はパソコンを触ったこともなく、情報収集もままならない状況。留学業者でもらった教材で勉強を始めました。英語は全科目の中でも苦手でしたが、目標のトレーナーになるためには英語なんかでつまずいていられない、という気持ちでいっぱいでした。
渡米後に襲った不調を乗り越えて
卒業後の5月に渡米し、まずは語学学校に入りました。おいしくないと言われていた食事は、実際食べてみると意外とおいしい。ガンガン食べていたところ、渡米2週間でなんと胃潰瘍に。短期間でここまで胃を悪くするなんて、一体どれだけたくさん食べたのでしょう!?しかし今思うと、アメリカの地に立ったものの右も左もわからない状態で、ストレスを感じていたのだと思います。大量に食べていたのも、きっとストレスからだったのでしょう。ただ、決して帰りたいとは思わなかったですし、留学中1度もホームシックにかかったことはありません。トレーナーになることしか考えていなかったので、「帰る」という選択肢は存在しなかったのです。とにかく必死でしたが、野球部の練習に比べればそれよりきついものはない、何でも乗り越えられると思いが支えとなっていました。
トレーナーになるために有効だった英語勉強法
3ヶ月の語学学校を経て、4年制大学へ入学。入学に必要なTOEFLの点数をクリアするために必死で勉強をしました。入学後は、少しはわかりやすいだろうと日本史の授業をとりましたが、正直、授業の内容は理解できず……。先生が「エンペラーが××△△※※」と言うと、生徒からどっと笑いが起きるのですが、自分にはさっぱりわからず悔しい思いをしたものです。トレーナーに近づくための勉強がしたいのに、一般科目も勉強しなくてはならないのがもどかしくて仕方ありませんでした。
私は英語の勉強法として、単語帳はあまり意味をなさないと思っています。では、どのように英語を習得したかというと、聴覚障害を持つ方が言葉のトレーニングをするためのクリニックに通わせてもらいました。そこで発音やスラングをなおしてもらい、通用する英語を身につけることができました。トレーナーは高いコミュニケーション力が必要とされるため、話せるということが何よりも大切なのではないでしょうか。
「人」という財産に恵まれていた留学時代
留学中、本当に悔しい思いをしたのも、やはりコミュニケーションに関することでした。フットボール選手たちが使う電動飲水器のバッテリーを、トレーニング室へ取りに行ったときのことです。そこにいた人たちに「バッテリー」「バッテリー」と伝えてもまったく通じない。15回以上言ってようやく通じたのですが「ああ!違うよー!」と相手は大笑い。「バッテリーはこうだよ」と言わんばかりにゆっくり「ba--tte---ry」と言われたときは腹立たしく、涙が出るほど悔しかったのを覚えています。しかしこの出来事を機に、よりいっそう英語をしっかりと身につけなくてはいけないという気持ちになりました。
せっかく海外に来ているのだから日本人とは付き合わない、というような意見もありますが、私は日本人との出会いも大切だと思っています。学部で同期だった日本人とは、トレーニング室では英語で会話をするというルールを決めて、とてもよい関係が築けましたし、語学学校の仲間とオリエンテーリング部を作って活動していたのですが、そこで出会った日本人女性はのちに妻となったのですから、とてもよい出会いだったと思います。こうして仲間、先生、妻、本当によい人たちに囲まれていた留学時代。よかったことはたくさんあるのですが、大切な人たちがそばにいるという環境に恵まれたことが最高だったと思います。高校時代は野球が上手か下手で人間の価値が決まるような環境の中、言いたいことも言えない自分がいましたが、アメリカでの留学生活で本来の自分を取り戻すことができたのです。
あの日誓った夢が叶った時
大学卒業後はやるだけのことはやりたいと、フロリダの大学院へ進むことを決めました。学校を選んだ理由は、ブルーとオレンジのスクールカラーに惹かれて(笑)。しかし、ここでその後の人生を変える出会いがあったのですから運命だったのかもしれません。その出会いとは、卒業間近にテキサスレンジャースのスプリングトレーニングでインターンをしたときのこと。チームドクターに就任した先生が、テキサスに来る直前までいたのがフロリダだったのです。自分がインターンのための書類を出していることを伝えると、先生が現場に話を通してくれることに。結果、近隣の高校に配属が決まりました。実際インターンが始まると、高校生は誰がトレーナーになろうとも、素直にはならず、そこを一人でハンドリングしていくためには、自分で考えて行動していくということが求められました。コミュニケーション力がつき、実績ができたのはもちろんのこと、どこに行ってもやっていける自信がつきました。
大学院卒業が見えてきたある日、以前より知り合いだったレンジャースのヘッドトレーナーから「インターンに来るか?」「卒業したらテキサスへ来いよ」とのお誘いを受けました。このとき、松坂選手が渡米してくる1年前。あの日神奈川大会の開会式で誓った『彼より早くメジャーリーグに』という目標と夢が達成されたのです!
メジャーリーグのトレーナーに求められること
メジャーリーグにはトレーナーとして世界で一番腕が立つ人がいるのかと思われがちですが、実はそうではありません。何がすごいかというと、ずばりコミュニケーション力。選手とGMの間に立って話ができる人が求められるのです。「ある選手が故障したから別の選手を獲るためにはいくら必要」ということも的確に判断しなくてはいけない。一生懸命勉強して技術をつければいいというものではない、ということを実感しました。
インターンは1年。終わってからはクリニックに残り、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーに就くことになりました。松坂選手の渡米時、私は関係者として出迎える側。先にアメリカでやっていた者として、ちょっとした優越感を持たずにはいられませんでした。
私の心に深く響いた言葉
妻がニューヨークの大学院に通っていたため、ずっと離れて暮らしていました。夫婦としてそろそろ一緒に暮らしたほうがいいということになり、自分がニューヨークへ移り、さらにテキサスへも移りました。両方合わせて5年ほどクリニックで勤務。ビザが切れる頃、日本でいくつかお声をかけてもらっていたこともあり、帰国も視野に入れていました。しかし、突然その話がなかったことに。ビザはまもなく切れるし、さあどうしようかという状況に陥っていました。
思い切ってコンディショニングコーチをしている大学院の先輩に相談を持ちかけたところ、「アメリカに残る気はあるのか?」と親身になって受け入れてくれました。アドバイスどおりに動いた結果、MLBアリゾナ・ダイアモンドバックスからトレーナーとしてのオファーが!就任後は、新化し続ける環境の中で、とにかく学び続けなければならないと改めて感じました。そんな私の心に響いた言葉があります。
『エゴは捨てろ』
エゴがない人はいません。そこで認めつつどうしていくかということが大事。皆で仕事をうまくやっていくというような、単純なものではありませんでした。
これから留学をしようとしている人へ
そのままアメリカで働き続けることもできたのですが、帰国を決めたのは家族という形を大切にしたかったから。日本で仕事をみつけた妻を、プロフェッショナルとして活躍できるように応援したい。やはり、家族はそばにいることが大切だと思います。
これから留学をしようとしている人に伝えたいのは、留学は目標を持ってするべきだということ。トレーナーになりたいと思ったのなら、まずどのようなトレーナーになりたいかを描くのです。そして達成するためには留学しなければいけないのかどうかを考える。「何もわからないけど行けば何とかなる」では、成功は難しいでしょう。とにかく自分と向き合うことが大事です。
私のほうは、今後日本のトレーナーのシステムを変えたいと考えています。優秀なトレーナーはたくさんいるのに、今は活躍する場が少ない。職業として活躍できる場を増やすことが目標です。また、アメリカで暮らして感じたのは、日本人は自己肯定感が低いということ。野球ができなくなったら自分終わったなと思ってしまいがちなんです。でも、野球はできないけど違うことはできる。セミナーなどを通じて、自分を肯定することへの理解を深める活動していきたいと思っています。
【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)