2017年9月 8日 (金)

Vol.23 ソフトボール留学:田河眞美さん

とわの森三愛高 → 山梨学院大 → サウスウエスタン・カレッジ

Img_5401_26歳からソフトボールを始め、小学2年生の冬からピッチャーを本格的に開始。小学校4年生からエースとして全国大会へ出場。中学校2.3年生ともに全国大会出場、とわの森三愛高校時代には3年連続全国大会、中高ともに6年間国体へ出場。高校2年生の冬にはニュージランドへ3ヶ月ソフトボール留学を経験し、大学4年までの16年間に渡りソフトボールに励んだ。その後、2年間社会人経験を経て、2016年6月に渡米し語学とソフトボールを学んでいる。現在は、Southwestern Collegeの女子ソフトボール部で学生アシスタントコーチとして従事している。北海道札幌市白石区出身。

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幼い頃、偶然にも始めたソフトボール。その時から田河眞美さんの真ん中には、いつもソフトボールがありました。一度は離れてしまっても、たとえ遠ざけてしまっても、戻るところはあの日から変わらずただ一つ…。ソフトボールを愛し、ソフトボールと共に生きる、貴重なお話をお聞きしました。
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もしあの日、幼い私が道に迷わなかったら…

ソフトボールを始めたきっかけは、4つ上の姉の影響だったのですが、私が始めるまでには少し経緯があります。姉がソフトボールを始めた頃から、両親は共働き、姉は練習で、家に一人で留守番をすることが多くなりました。小学校1年生になったある日、学校の友達の家に行こうとした私は、道に迷ってしまって…。ソフトボールチームの監督がそれを知って「これからは危ないから一緒に練習しよう」と言ってくれたのです。これがソフトボールを始めたきっかけとなりました。

華やかさと影の間で探し出した分岐点

Unnamed_2小学校時代、ソフトボール選手として成長した私は、中学校は校区外のソフトボールが強い学校に通っていました。両親、叔母、チームの監督が送り迎えしてくれたことは、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。そして、進学したとわの森三愛高校は、当時、第2希望の学校でした。でも、日本代表チームの監督もされていましたし、こうして先生方が素晴らしいことは知っていました。また、とわの森三愛高校のOGで、ニュージーランド留学をした先輩がいたこともあり、自分にも「留学」が選択肢の1つとなったのです。とわの森三愛高校へ行ったことが今の私に繋がっていて、これも何かの縁のような気がします。

高校では、3年連続全国大会出場。そして、高2の3学期にニュージーランドへソフトボール留学をしました。ソフトボール選手としては輝かしい経歴に見えるかもしれませんが、高校時代の私は、スランプの闇から抜け出せず……。そんな様子を心配して、先生は「やりたいことがあるなら何でもサポートする」と言ってくださいました。とにかくネガティブな気持ちしか持てない自分を変えたい。そのためには、海外に行きたいと思ったのです。まさか留学をしたいと言い出すなんて、先生には意外だったようですが、すぐに手続きを進めてくださいました。

少し時間が戻りますが、小学校時代、毎年、三重県の熊野で行われるキャンプに参加していました。そこにニュージーランドからコーチが来ており、留学の際にも一緒にニュージーランドへ渡りました。この留学は、私にとって大きな分岐点。ホストファミリーの家で家事を手伝いながらソフトボールをする日々の中で、自分を見つめ直し、考えるきっかけとなったのです。


思い悩んだ気持ちを糧に新たな道を

Unnamed_4大学は、地元を離れ山梨学院大学へ。1年生時は顔面にボールが当たり、シーズンを棒に振りました。納得できるよい成績が残せないまま、迎えた最終学年。後にも先にも大学は残り1年、台湾遠征をはじめ、気合いを入れて頑張ろうと考えていました。しかし、そんな矢先「コーチをしてみないか」という話が出たのです。「選手として全うしたい」「両親に恩返しがしたい」という思いから、本当に悩んだのですが、求められているのなら受けることも大切だと考え、コーチになることを決意。それからは、コーチとしてチームのピッチャー全員を担当して見ていました。コーチになったことで、必要なのは選手だけではないということを思い知らされましたし、社会人への準備ができました。

実は、選手を退きコーチになった後、ある意味ほっとしたことを覚えています。「選手としてまっとうしたかった」という気持ちから、「選手としてやらなくてもよくなった」という気持ちに変わっていたのでしょう。とは言え、本当は重圧なんてなかったのです。自分が自分にプレッシャーをかけていたのだと思います。

幼い頃からソフトボール選手として、ずっと褒められて育ってきました。そんな私は、初めての挫折から上手く立ち直れず、長く尾を引いてしまったのです。高校と大学は、正直なところ、不完全燃焼。自分のやりたいと思うソフトボールができませんでした。でも、こうして思い悩んだこと、立ち止まって考えたこと、それがすべてマイナスだったとは思いません。今につながっていることは多いはずです。

背中を押してくれた母の言葉
Unnamed_1大学卒業後には、とにかく海外に行きたいという気持ちが強くなっていました。しかし、監督から「留学には費用がかかる。大学を卒業してまで親に頼るな」と言われ、確かにそうだと納得しました。就職活動をして人材派遣会社に就職しました。主に外国人への仕事を斡旋している会社です。仕事を求めてやって来る外国人は、決して豊かな国の人たちばかりではありませんでした。日本で勉強をしながらアルバイトをして、その上、母国の家族へ仕送りしている人もいたのです。そんな彼らからは、刺激と勇気をもらいました。
こうした中、2020年の東京オリンピックで、ソフトボールが追加種目として復活することになりました。これを受けて私も「何か行動しなくては!」と思い立ったのです。母に相談したところ「何かしたいと思った時にやらなくては、永遠に後悔するよ」と言ってくれ、その言葉が背中を押してくれました。まずは、留学のために貯金から開始し、会社は2016年3月に退職。その年の6月に渡米しました。しかし、ソフトボールができるかどうかはわかりません。知り合いなんて誰もいないのですから…。そんな状況でしたが、とにかく行けばなんとかなるだろうと思っていました。


拓き始めたアメリカで進む道

渡米して1か月後、オクラホマでソフトボールのワールドカップが開催されました。そこに、日本代表チームに帯同してとわの森三愛高校の監督が来ることになったのです。監督のおかげで、カリフォルニアでソフトボールの会社を運営している日本人女性を紹介してもらえることになりました。コンタクトをとると、ちょうどニューヨークに来るとのこと。アメリカでのソフトボールの道が拓き始めた瞬間でした。急遽ニューヨークからサンディエゴに拠点を移し、Southwestern Collegeへ入学。そちらのソフトボール部でコーチを務め、アメリカのソフトボールに携わることができています。

日本とアメリカの違い、その根底にあるのは?

Unnamed_3あくまでの個人的な意見ですが、高校・大学レベルで比較した場合、レベルはアメリカのほうが少し上だと感じますが、一人ひとりのスキルは日本人のほうが高く、日米それぞれに秀でた部分があると感じています。身体能力や精神的な面でいえばモチベーションは、アメリカの選手のほうが持っているかな、と。アメリカの選手は、切り替えが上手です。普段はやる気あるのかどうかわからないような選手が、試合になると計り知れない力を発揮する。日本人にはないハングリー精神ではないでしょうか。私もそうでしたが、日本人はちょっと過保護かな、と。たとえばアメリカとは、赤ちゃんの時からの育て方が違います。よちよち歩きの赤ちゃんがプールのそばを走っていても、お母さんはやめさせません。プールに落ちないか心配しながら見ていたのですが、案の定、落ちてしまったのですが、そこで初めてお母さんが助けに駆け寄るといった光景でした。また、アメリカの選手たちは、ライバルライバル、嫌なことは嫌。取り繕うことがなく、はっきりしていますね。

日本でソフトボールに励む選手たちへ

Unnamed_3_2自分のしたいこと、目標や夢を正直に伝えてほしいと思います。誰かに伝えてもいいし、紙に書くのでもいいでしょう。大きなことから小さいことまで、口に出したり全部書き出したりする。そこで、重要度もわかります。私は、「アメリカのソフトボールを知りたい!」と言っていたら、それに関係する方々に出逢え、アドバイスをもらい、アメリカでソフトボールのアシスタントコーチをさせていただいています。もし、口に出すことが苦手な人は、日常的なことを伝えることから始めてもいいと思います。私は「サングラスがほしい」と思っていたら、そういうことも口に出して言っています。すると、誰かがフレンドリーに「サングラス、ほしいって言ってなかった?」と教えてくれる。このように、何かにつながっていくのです。

もう1つは、絶対にあきらめないでほしい。私自身あきらめなかったことで、一度離れたソフトボールにもう一度携わることができました。可能性は無数にあると思います。私の場合、もし、オーストラリアに行っていたとしたら、違う道を歩いていたかもしれません。そして、この道へ導いてくれた女性に出逢わなければ、今の私はいないでしょう。出会いは大切、一期一会です。今の環境は恵まれています。悩みといえば、幸せな悩みばかりです。

今後の身の振り方については、模索中です。年齢的なことを考えると、こうした留学のチャンスは最後でしょう。資格を取りたいと思っていますが、今の学校ではその資格のための勉強はできません。トランスファーするか、コーチをしながら学ぶかなど、いくつかある選択肢を考えて進む道をみつけたいと思います。まだまだ道の途中。でも、自分の中で確固たるものとしてあるのは、留学を考えているソフトボール選手の手助けをしたいということ。私もアメリカでソフトボールを携わっていることを糧に頑張ります!

【取材・文】金木有香

【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2017年5月19日 (金)

Vol.22 野球コーチ留学:林 泰祐さん

Hayashi 戸畑高 → 関西大 → インディアナ州立大学

小学4年から大学まで野球に没頭。関西大卒業後、スポーツ大国アメリカのトレーニングを学ぶためにインディアナ州立大学へ留学。同校卒業後はテキサス州ヒューストンのトレーニング施設で主にMLB、NFL、女子サッカーのトレーニングを担当。アメリカの高校・大学野球のアシスタントコーチとしても活動し、日米の野球の違いを肌で感じる。現在は株式会社Dr.Trainingにて、ストレングス&コンディショニングコーチとして活躍中。パフォーマンスアップのみならず“一生ものの身体作り”を提供する。

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日本の野球を強くしたい その目標を達成すべくアメリカに渡った林泰祐さん。野球は辞めた時点で終わりではない。野球はどこまでもつながっていく。野球と林さんの強い思いが重なり合ってできた希少なストーリーをお聞きしました。

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志を貫くための一歩

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小学4年生から始め、生活のほとんどを占めていた野球。大学卒業後は、英語の教員免許を取って高校野球の監督をしようと考えていました。しかし、そんな思いに変化をもたらす出来事が起こったのです。ケガをして大学のトレーナールームに行った時のこと。そこで私を待っていたのは、現在働いている会社の代表である山口元紀さんでした。アメリカ留学やトレーニングの話を聞くと、とにかく新鮮!私の中で電球が光るのを感じました。気になりだしたアメリカへの留学とトレーナーという仕事。その私を渡米へと導くひと押しは、大好きな岩村明憲選手がアメリカから帰国したことを含め、日本の野球が世界に太刀打ちできないと痛感した瞬間でした。日本の野球がもっと強くなるために動きたい、その思いが私を突き動かしたのでした。

底辺からのスタートだった英語

英語はもともと好きだったので、アメリカの大学に入学するために必要なTOEFLの点数は、余裕でクリアできるだろうと思っていました。しかし、大学4年の1月、そろそろ留学へ向けて本腰を入れようと思って受けたTOEFLの点数は、なんと7点!? 大学卒業後、福岡の実家へ戻り、英語漬けの毎日を過ごすこととなりました。食事と寝るとき以外は英語、英語……。しかし、スタートが7点という底辺だったので、伸び代が大きく、どんどん上達していくことが楽しくて仕方ありませんでした。父親は「留学してトレーナーになって、それで食べていけるのか」と心配していましたが、そこは「大丈夫!」と自信ありげに答えました。それ以外は「好きなことをすればいい」と言ってくれる両親だったので、有り難かったです。そんな両親の思いにも応えたい、英語教員免許を取ったのにそれを蹴ってまでアメリカへ行く、よい意味でのプレッシャーがモチベーションを上げてくれました。

パズルの1つ目のピースは母校から始まった

母校である戸畑高校・野球部の監督が「コーチとして練習に顔を出してみないか?」と声を掛けてくださいました。監督は、私が現役時代に指導を受けた監督ではありませんでしたが、つながりを大切にしてくださる方でした。週末にはグラウンドへ足を運ぶようになり、英語だけの毎日の中で息抜きができました。また、高校のコーチをしたこの経験が、アメリカ生活を形作るパズルのピースの1つ目になるとは、この時は思いもしませんでした。

いざ、アメリカへ!どん底の3日間から這い上がれたのは野球のおかげ

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これまで1度も海外に行ったことはなく、そんな私がアメリカに飛び込んでみると、想像をはるかに超える衝撃が待っていました。まず、到着した空港で行われる入国検査で何が起こっているかわからない。何もできないし、何も話せないし、何を聞かれているのか、何を聞いたらいいのかもわからない。引き返すこともできない。頭が真っ白な状態で10分間立ちつくしていたのですが、まるで5年くらいに感じました(笑)。何とか切り抜けてようやく寮に着いたのですが、冬期の休み中で学生たちはほとんど帰省しており、人が少なくてしんみりした雰囲気。自分の部屋でブランケットをかぶり、三日三晩、何も食べずに天井だけを見つめていました。今振り返ると、かなり危ない人だったと思います(笑)。
これではダメだ!何かできることはないかと考えた時、頭に浮かんだのは、ただ一つ、野球でした。早速、大学の野球部に行って「アシスタントコーチをやらせてほしい」と言ってみたところ、即、OK!との返事が。こういうところはアメリカっぽくて、いいなあと思います。その日からすぐに練習に参加。以前、日本人のコーチがいたこともあり、日本人のよさをわかってくれている上に、コーチの中には日本を好きな人がいたので、非常によい雰囲気でした。選んで行ったわけではないですが、巡り会わせってあるものだなと感じました。
 
日本人である私は、フォームがきれい、ノックが上手いということで、重宝されました。また、渡米前に高校でコーチをしていたことも、信頼を生み出しました。あの時、監督がコーチをして呼んでくれたことがこういう形でつながったことで、私のアメリカ生活を形作るものは、あの時から始まっていたのだと実感しました。

早々にやってきた転機

Img_1238_2 現地の大学では、関西大で取った88単位が認められ、一般教養科目は取らず専門科目だけ取ればいいと言われました。トランスファー(編入学)という形で始めることになり、最初はATCを目指す科目を専攻しました。しかし、早々と転機が訪れます。その助走は、日本とアメリカの練習の質の違いを感じるところから始まりました。日本はとにかく走って身体を作りますが、アメリカはウエイトトレーニングが中心。朝の6時からチームの選手たちがウエイトルームに集まり、トレーニングをする光景は衝撃としか言いようがありませんでした。その光景を見ていくうちに、自分の中でストレングスコーチになるということがくっきりとした形となっていったのです。そうなれば、大学の専攻を変えなくてはいけません。アカデミックアドバイザーと話をして、2学期から専攻を変えることが決まりました。もっと後になってからであれば、軌道を変えることは難しかったと思います。早い段階で決断できて、本当によかったです。

文武両立を確立する秘訣

アメリカは、文武両道を達成してこそという考え方です。私は高校時代に、勉強と野球の両方をする習慣がついていたので、すんなり受け入れることができました。しかし、勉強はすればするほど時間が足りません。あの頃の1日のスケジュールは、5時半に起床、6時15分からウエイトトレーニング、その後朝食または仮眠、授業を2、3コマ受けた後、14時から17時頃まで練習、寮に帰って夕食。そこから勉強を始めて0時に寝る。夜中2時まで勉強することも少なくありませんでしたが、それでも足りないと感じるほどでした。そんな中、私が心がけていたのは、授業の内容をいかに逃さないかということ。わらかないことはその場で聞く。そんなことできるの?と思うかもしれませんが、教授に自分のことを覚えてもらえばいいのです。私は、毎日教授のところへ質問をしに行っていました。わからない授業であればあるほど、教授に接しようと努めました。そのおかげで教授に覚えてもらい、授業をスムーズに受けることができたと思います。

日本人として稀な経験

Img_1309_2大学卒業後は、マサチューセッツ州のトレーニング施設で2か月インターンをしました。その時のホストファミリーが、大学野球部にいた選手の叔母さんということで、ここでも偶然が重なりました。その後はヒューストンのDynamic Sports Trainingで8か月間のインターン。こちらの施設は、インターンでも経験者ということで即戦力として扱ってくれ、メジャーリーガーとマイナーリーガーを中心に指導をしていました。また、コーチ陣のレベルの高いパフォーマンスを見ることができたのは、大変勉強になりました。帰国後は、アメリカに行くという道を気づかせてくれた人、山口さんを訪ね、今に至っています。

ここでヒューストン時代の出来事を話したいと思います。

私にとっては、英語というより野球が共通言語。野球があるからこそ、アメリカで生活していくことができ、その生活は楽しくてしかたありませんでした。「野球のおかげ」そんな思いを感じていた頃、さらに野球が導いてくれる出来事が起こりました。私の働いているジムは高校の敷地内にあったのですが、その高校の野球部のヘッドコーチが、野球を解剖学的や運動生理学的に考える方で、とても興味深く感じていました。ある日、そのコーチから「日本の野球を教えてよ」と、突然のオーダーがやってきました。私の思うところを話したり見せたりしてみると、その場で「アシスタントコーチをやってくれ」と言うのです!

まずは、トレーニングコーチとしてチームづくりから始まり、シーズン中は1塁コーチャーを任されました。相手ピッチャーの配球を読み、盗塁のサインを出すのが役目です。この話をすると「日本人でコーチとしてボックスに立った人も珍しい」と言われます。確かに稀な経験をさせてもらったと思います。選手たちも日本の野球を吸収しようとしてくれ、バントやエンドラン、右打ちなど、私もできる限り日本の野球を伝えました。その成果なのか、スクイズでサヨナラ勝ちをした試合があったほどです。コーチとして、円陣を組んだ時の声掛けが難しかったのですが、端的に言おうと心掛けました。シンプルな言葉でも通じるもので、次第に選手たちが慕ってくれるようになっていました。ヘッドコーチのもとで野球に関われたことは、私の価値観を変え、今のストレングス・コンディショニングコーチとしてのあり方にもつながっています。

留学を考えている皆さんへ

Img_1912_2 留学した方が口をそろえて言うことだと思うのですが、悩んでいるならとにかく行ってみることです。もちろんくじけそうになることもあると思います。でも、自分の中にぶれない何かが1つあれば、大丈夫!私は、野球をはじめ、日本のスポーツのレベルを上げたいという思いがありました。この思いは留学前からぶれることなく、持ち続けています。2つ目は常に学ぶ姿勢でいること。わらないことをうやむやにしたり知ったかぶりをしたりせず、誰かに聞いてみるのです。留学生とわかれば、きっと親切にしてくれます。アメリカ人は、話好きでフレンドリー。歩み寄れば受け入れてくれます。そして、3つ目はプランニングをしっかりしておくこと。私は行き当たりばったりだったと、今振り返ってみて感じています。アメリカ生活というパズルのピースたちが運よくみつかり、上手くはまったからよかったものの、もしそうでなければ八方ふさがりになっていたと思います。プランニングといっても難しく考える必要はありません。行きたい学校をよく調べることから始めてみてください。学校選びは、有名校だからでもいいし、プログラムが特化しているからというのでもいい。あとは置かれた環境で切り替えて進んでいく適応力があれば、大丈夫です!

私自身の今後の目標は、自分の知識を活かして、日本のスポーツ界のレベルをもっと上げていきたいと考えています。そのためには、もちろん自分を成長させることも必要です。例えて言うなら、クリスマスツリー。土台となる幹や枝、葉を持つ木は変わらないけど、そこにつける飾りは取り外しも変更も可能。自分の軸となる信念は決して変わることはないけれど、状況に応じて柔軟に対応していき、また新たな技術や知識も身につけていきたいです!

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年11月28日 (月)

Vol.21 トレーナー留学:大貫 崇さん

Cimg0569桐蔭学園 → タウソン大学 → フロリダ大学大学院 → アリゾナ・ダイヤモンドバックス

神奈川県・桐蔭学園高校を卒業後、渡米。タウソン大学アスレティックトレーニング学科を卒業後、高校でヘッドアスレティックトレーナーとして働きながら06年にフロリダ大学大学院で応用運動生理学の修士号を取得。その後MLBレンジャースのインターンとして働き、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーとして勤務。理学療法クリニックにおいてアスレティックトレーナーとしてニューヨークやテキサスで計5年間勤務したのち、マイナーリーグアスレティックトレーナーとしてMLBダイアモンドバックスと契約。13年に帰国後は株式会社リーチに所属し、翌年9月より京都に投球ビデオ撮影ができるラボを開設し、アメリカの研究文献に基づく投球ビデオ分析サービスBMATを開設。日本の野球選手が幸せにプレーできるよう、野球障害予防とコンディショニングに力を入れている。


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「神様は努力をした人に『偶然』という架け橋を与える』という言葉があります。偶然は運がツイているから起こるように見えて、実は努力が引き起こしているという意味です。留学時代からその後のアメリカ生活において、不断の努力と強気と思いやりで人生の偶然を引き起こした大貫崇さん。パワーみなぎる独自のサクセスストーリーをお聞きしました。
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アメリカへの思いを突き動かした人物とは?

トレーナー留学の意志がかたまったのは、センター試験の1日目が終わった日のことでした。試験を終えて帰宅した自分を待っていたのは、ある留学業者から届いたパンフレット。心が引き寄せられるのを感じました。トレーナーを志そうと思ったのは野球部時代にさかのぼります。自分は人の身体を触わるのが得意だと感じ、その道を視野に入れていました。そして、気持ちが大きく揺れ動いたのは、神奈川大会開会式の日。そこには多くの記者に囲まれてインタビューを受ける松坂大輔選手の姿が。かたや開会式で行進すらできない自分。「彼より先にメジャーリーグに行く!!」松坂選手にインスパイアされた私の中に、揺るぎない目標が掲げられた瞬間でした。

実は日本の大学も受かっていたのですが、心は決まっていました。まずは両親に相談すると、中学生のときから寮生活だった自分を信頼してくれ、すんなりと受け入れてくれたのは有り難かったです。学校の先生は、突然の留学宣言に驚いていましたが(笑)。当時はパソコンを触ったこともなく、情報収集もままならない状況。留学業者でもらった教材で勉強を始めました。英語は全科目の中でも苦手でしたが、目標のトレーナーになるためには英語なんかでつまずいていられない、という気持ちでいっぱいでした。


渡米後に襲った不調を乗り越えて

At卒業後の5月に渡米し、まずは語学学校に入りました。おいしくないと言われていた食事は、実際食べてみると意外とおいしい。ガンガン食べていたところ、渡米2週間でなんと胃潰瘍に。短期間でここまで胃を悪くするなんて、一体どれだけたくさん食べたのでしょう!?しかし今思うと、アメリカの地に立ったものの右も左もわからない状態で、ストレスを感じていたのだと思います。大量に食べていたのも、きっとストレスからだったのでしょう。ただ、決して帰りたいとは思わなかったですし、留学中1度もホームシックにかかったことはありません。トレーナーになることしか考えていなかったので、「帰る」という選択肢は存在しなかったのです。とにかく必死でしたが、野球部の練習に比べればそれよりきついものはない、何でも乗り越えられると思いが支えとなっていました。

トレーナーになるために有効だった英語勉強法

Photo3ヶ月の語学学校を経て、4年制大学へ入学。入学に必要なTOEFLの点数をクリアするために必死で勉強をしました。入学後は、少しはわかりやすいだろうと日本史の授業をとりましたが、正直、授業の内容は理解できず……。先生が「エンペラーが××△△※※」と言うと、生徒からどっと笑いが起きるのですが、自分にはさっぱりわからず悔しい思いをしたものです。トレーナーに近づくための勉強がしたいのに、一般科目も勉強しなくてはならないのがもどかしくて仕方ありませんでした。

私は英語の勉強法として、単語帳はあまり意味をなさないと思っています。では、どのように英語を習得したかというと、聴覚障害を持つ方が言葉のトレーニングをするためのクリニックに通わせてもらいました。そこで発音やスラングをなおしてもらい、通用する英語を身につけることができました。トレーナーは高いコミュニケーション力が必要とされるため、話せるということが何よりも大切なのではないでしょうか。

「人」という財産に恵まれていた留学時代

Uf留学中、本当に悔しい思いをしたのも、やはりコミュニケーションに関することでした。フットボール選手たちが使う電動飲水器のバッテリーを、トレーニング室へ取りに行ったときのことです。そこにいた人たちに「バッテリー」「バッテリー」と伝えてもまったく通じない。15回以上言ってようやく通じたのですが「ああ!違うよー!」と相手は大笑い。「バッテリーはこうだよ」と言わんばかりにゆっくり「ba--tte---ry」と言われたときは腹立たしく、涙が出るほど悔しかったのを覚えています。しかしこの出来事を機に、よりいっそう英語をしっかりと身につけなくてはいけないという気持ちになりました。

せっかく海外に来ているのだから日本人とは付き合わない、というような意見もありますが、私は日本人との出会いも大切だと思っています。学部で同期だった日本人とは、トレーニング室では英語で会話をするというルールを決めて、とてもよい関係が築けましたし、語学学校の仲間とオリエンテーリング部を作って活動していたのですが、そこで出会った日本人女性はのちに妻となったのですから、とてもよい出会いだったと思います。こうして仲間、先生、妻、本当によい人たちに囲まれていた留学時代。よかったことはたくさんあるのですが、大切な人たちがそばにいるという環境に恵まれたことが最高だったと思います。高校時代は野球が上手か下手で人間の価値が決まるような環境の中、言いたいことも言えない自分がいましたが、アメリカでの留学生活で本来の自分を取り戻すことができたのです。

あの日誓った夢が叶った時

Uf_3大学卒業後はやるだけのことはやりたいと、フロリダの大学院へ進むことを決めました。学校を選んだ理由は、ブルーとオレンジのスクールカラーに惹かれて(笑)。しかし、ここでその後の人生を変える出会いがあったのですから運命だったのかもしれません。その出会いとは、卒業間近にテキサスレンジャースのスプリングトレーニングでインターンをしたときのこと。チームドクターに就任した先生が、テキサスに来る直前までいたのがフロリダだったのです。自分がインターンのための書類を出していることを伝えると、先生が現場に話を通してくれることに。結果、近隣の高校に配属が決まりました。実際インターンが始まると、高校生は誰がトレーナーになろうとも、素直にはならず、そこを一人でハンドリングしていくためには、自分で考えて行動していくということが求められました。コミュニケーション力がつき、実績ができたのはもちろんのこと、どこに行ってもやっていける自信がつきました。

大学院卒業が見えてきたある日、以前より知り合いだったレンジャースのヘッドトレーナーから「インターンに来るか?」「卒業したらテキサスへ来いよ」とのお誘いを受けました。このとき、松坂選手が渡米してくる1年前。あの日神奈川大会の開会式で誓った『彼より早くメジャーリーグに』という目標と夢が達成されたのです!

メジャーリーグのトレーナーに求められること

2004_2メジャーリーグにはトレーナーとして世界で一番腕が立つ人がいるのかと思われがちですが、実はそうではありません。何がすごいかというと、ずばりコミュニケーション力。選手とGMの間に立って話ができる人が求められるのです。「ある選手が故障したから別の選手を獲るためにはいくら必要」ということも的確に判断しなくてはいけない。一生懸命勉強して技術をつければいいというものではない、ということを実感しました。

インターンは1年。終わってからはクリニックに残り、NBA D-Leagueのフォートワース・フライヤーズでヘッドアスレティックトレーナーに就くことになりました。松坂選手の渡米時、私は関係者として出迎える側。先にアメリカでやっていた者として、ちょっとした優越感を持たずにはいられませんでした。

私の心に深く響いた言葉

2006_2妻がニューヨークの大学院に通っていたため、ずっと離れて暮らしていました。夫婦としてそろそろ一緒に暮らしたほうがいいということになり、自分がニューヨークへ移り、さらにテキサスへも移りました。両方合わせて5年ほどクリニックで勤務。ビザが切れる頃、日本でいくつかお声をかけてもらっていたこともあり、帰国も視野に入れていました。しかし、突然その話がなかったことに。ビザはまもなく切れるし、さあどうしようかという状況に陥っていました。

思い切ってコンディショニングコーチをしている大学院の先輩に相談を持ちかけたところ、「アメリカに残る気はあるのか?」と親身になって受け入れてくれました。アドバイスどおりに動いた結果、MLBアリゾナ・ダイアモンドバックスからトレーナーとしてのオファーが!就任後は、新化し続ける環境の中で、とにかく学び続けなければならないと改めて感じました。そんな私の心に響いた言葉があります。

『エゴは捨てろ』

エゴがない人はいません。そこで認めつつどうしていくかということが大事。皆で仕事をうまくやっていくというような、単純なものではありませんでした。

これから留学をしようとしている人へ

Photo_2そのままアメリカで働き続けることもできたのですが、帰国を決めたのは家族という形を大切にしたかったから。日本で仕事をみつけた妻を、プロフェッショナルとして活躍できるように応援したい。やはり、家族はそばにいることが大切だと思います。

これから留学をしようとしている人に伝えたいのは、留学は目標を持ってするべきだということ。トレーナーになりたいと思ったのなら、まずどのようなトレーナーになりたいかを描くのです。そして達成するためには留学しなければいけないのかどうかを考える。「何もわからないけど行けば何とかなる」では、成功は難しいでしょう。とにかく自分と向き合うことが大事です。

私のほうは、今後日本のトレーナーのシステムを変えたいと考えています。優秀なトレーナーはたくさんいるのに、今は活躍する場が少ない。職業として活躍できる場を増やすことが目標です。また、アメリカで暮らして感じたのは、日本人は自己肯定感が低いということ。野球ができなくなったら自分終わったなと思ってしまいがちなんです。でも、野球はできないけど違うことはできる。セミナーなどを通じて、自分を肯定することへの理解を深める活動していきたいと思っています。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年8月 3日 (水)

Vol.20 ソフトボール留学:五十川智美さん

とわの森三愛高 → 早稲田大 → ニュージーランド・HVセインツ

P2歳からのスピードスケートを始め、小学生から中学生までスケート競技を9年間続け日本代表選手にも選出される。小学6年時には陸上大会(800m)、中学生からはソフトボールも同時にプレーし、名門・とわの森三愛高校では主将を務め国体3位/インハイ3位の輝かしい成績を残す。早大時代にもチームの中心選手として関東大会選手権2連覇、社会人チーム時代は国体3年連続出場を達成。ニュージーランド時代はリーグ戦で打率.450の高打率で見事MVPを獲得。現在は競技者としての挑戦を続ける一方で、スポーツと一生向き合っている環境作り、ジュニア育成に注力している。北海道十勝音更町出身。


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大学時代まで打ち込み続けたソフトボールを、就職を機に一度は離れようとした五十川さん。しかし、ソフトボールと自分は切り離せない、と夢を追いかけてニュージーランドへ渡りました。日本とニュージーランドを経験した五十川さんのソフトボール愛にあふれる貴重なお話をお聞きしました。
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切っても切れないソフトボールへの思い

全国1位を目指して、ソフトボールに全力を尽くした大学時代。結果は3位でした。それを受けて卒業後は「もう、ソフトボールから離れよう。ソフトボールのない生活をしよう」と心に決めました。東京から地元・北海道に戻り、病院に就職。しかし、一度はソフトボールから離れたものの、気づけば、誘っていただいたクラブチームでソフトボールをしていました。朝から晩まで仕事をした後や週末にするソフトボールは、何よりもの息抜き。やっぱり私の生活には、ソフトボールは欠かせないものでした。

私を変えてくれたソフトボール

1病院勤務の3年間、再び携わったソフトボールが私を変えてくれました。自分にできることは、選手としてだけではない。指導者としてもスポーツやソフトボールを通じて社会に貢献できるのではないか、と考えるようになったのです。そこで「できることはまだまだある。夢をあきらめるのは、まだ早い」と、私の挑戦心をかきたてたのが、ニュージーランドへの留学でした。

大学時代は海外へ行こうと思ったことはなかったので、まずは、情報収集から準備を始めました。そして、肝心の英語はというと……、かなり苦手。これまでスポーツに打ち込んできたため、しっかりと勉強をしたことがありませんでした。基礎からやり直しです。こうした期間を経て、ある程度渡航の準備が整ったとき、ようやく両親に話をしました。「ニュージーランドへ単身ソフトボール留学をするなんて」と最初は驚いていましたが、私が自分で決めたことは何を言っても止めることはできないと知っている父と母。「頑張っておいで」と送り出してくれました。


いざ!ニュージーランドへ

3ニュージーランドへは、ワーキングホリデーのビザを取得して渡航しました。第一印象は、スポーツや運動が好きな人が多い!ということでした。街中で走っている人、エクササイズをしている人がたくさんいて、テンションが上がりました。ただ、物価の高さが困りもの。コーラ1本500円という感覚にはまいりました。また、小腹が空いたときに「ちょっと食べたいな」と思っても、日本のおにぎりみたいな軽食がありません。食べるならしっかり食べるというメニューしかなかったのも、文化の違いを感じた点でした。しかし、ほとんど英語ができず「とりあえず行ってみよう!」という状態で渡航した私を支えてくれたのは、何よりもニュージーランドの人のやさしさでした。道を尋ねると、ただ説明をするだけでなく、現地まで一緒に行ってくれたり、銀行での手続きも親切に対応してくれたりしました。

ソフトボールにおける日本とニュージーランドの違い

海外でソフトボールをして感じたことは、日本は世界で最高レベルだということ。技術で日本に及ぶ国はないと自信を持つことができました。しかし、その技術に達してはいませんが、ニュージーランドのソフトボールパワーには衝撃を受けました。日本は技術を教えられてこそですが、ニュージーランドの若い世代は、その技術を教えてもらうこともないのに、必死でボールに食らいついたりヘッドスライディングをしたりしているのです。メンタルの強さと筋力の高さには脱帽でした。これに技術が加われば、大きく変わるのではないかと思います。


言葉の壁を乗り越えて

2こうしたニュージーランドのパワーに日々触れながら、1年間の生活を終えました。チームに日本人は私一人。ソフトボールをしているとき、日本語は一切使いませんでした。振り返ってみると、やはり、最初は言葉の壁が高かったなと思います。コーチやチームメイトの言葉をすべて理解することができなくて、申し訳ないという気持ちで一杯でした。言ってくれた言葉に対して、自分ももっと返すことできれば……ともどかしさがつのりました。半年ほどが過ぎ、言いたいことを頭で整理してから話すようにすると、徐々に馴染むことができました。コンプレックスを持っていた英語を、もっと勉強したいと思うようになったほどです。

ニュージーランドが教えてくれたこと

メンタルの面では、ニュージーランドの選手から多くのことを学びました。それは「すべてを楽しむ」ということ。たとえば、これまでの私の場合、試合で1打席目、2打席目がダメで、3打席目に打ったとしても、「1打席目から結果を出さなくてはいけなかった」と思っていました。さらに、チーム内にも「あそこで打っていたらこんな展開にはならなかったのに」という雰囲気が流れます。でも、ニュージーランドの選手は、それまでの結果や展開がどうであれ「打ったものは打ったからいいでしょ!成功は成功!」と言うのです。そして、チームメイトも一緒に喜ぶ。これこそが選手にとって必要なメンタルであり、チームのあるべき姿だと思いました。こうした気持ちや雰囲気が次の試合によいふうにつながっていく。私はこれを「ニュージーランドマインド」と呼んでいます!

これから海外を目指す皆さんへ

4最初は「行きたい!」という気持ちが前面に出て「楽しみ」が先行すると思います。それからさまざまなことを調べていくうちに、いつの間にか「不安8割、楽しみ2割」という気持ちになるのではないでしょうか。でも、実際に現地に行くと、また、数字が逆転します。不安を乗り越えて挑戦すれば、きっとうまくいくはず!留学を迷っているなら、ぜひ、実行にうつしてほしい。なぜなら、人生が変わるから。もちろん変えるのは自分なのですが、たくさんのきっかけをもらうことができる。人生の勉強だと思って、挑戦してください。

私自身は、ソフトボールや日本というくくりにとらわれるのではなく、スポーツ全体をグローバルな視点で見ていきたいと思っています。また、選手としてだけではなく、指導やコーチングも行っていくつもりです。今はソフトボール人口が減っているのが現状。しかし、高い位置にのぼれないのならやらないという思考ではなく、ソフトボールがしたいという気持ちを大切に、もっと広い視点で考えられるソフトボール界にしていきたいと考えています。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年4月27日 (水)

Vol.19 マネジメント留学:山根耕治さん

神港学園 → 大阪学院大 → ジョージブラウン・カレッジ大学院

12988159_10156753912475398_145315_2強豪・神港学園高校では2年生時に甲子園出場。卒業後、大阪学院大学へ進学するも、怪我のため野球を断念。在学中に母と行ったアメリカ旅行で英語力の必要性を実感し、留学を志す。その後、カナダの大学院へスポーツマネージメント留学。卒業後、留学コンサルタントを経て、現在はカナダ・トロントにあるセンテニアル・カレッジの留学生担当として活動。また自社ブランドを立ち上げ、カナダ産のメイプルを使った特製のバットを生産し、カナダ野球の更なる発展へ尽力している。


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英語力ゼロからのスタートで、カナダの大学院で学び、就職、そして起業までたどり着いた山根さん。そこには、強い意志とたゆまぬ努力がありました。海外で野球に携わる仕事をするという夢を現実に変え、さらなる目標へ向かう力強いお話をお聞きしました。
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野球漬け人生のはじまり

私の野球人生のはじまりは、小学1年生の時でした。地元は甲子園が近く、野球が盛んな地域。大きなグラウンドがあり、野球をするために子どもたちが集まって来ていました。私も放課後には、毎日そのグラウンドに行って練習をし、小学校低学年にして、まさに野球漬けの日々。春夏は必ず甲子園に足を運び、野球関連のビデオをすり切れてしまうほど観ていた私の姿に、両親は「勉強もこれくらい熱心にやってくれるといいけどなあ」と言っていたものです。すべては野球のために生活をしていたと言えるでしょう。

震災を乗り越えて

12980572_10156753902030398_18539772小学校で一緒に野球をしていたメンバーとともに「チームを強くしよう」と、地元の中学に進学。さらに野球色に染まった時間を過ごし、高校進学を控えた中学3年の冬、阪神淡路大震災が起こったのです。自分も含め野球部のメンバーの多くが被災。これまでの価値観を変えるほどの大きな出来事であり、この日を境に「生きている」ではなく「生かされている」と思うようになりました。「1度きりの人生。やりたいことを思い切りやろう」という思いで、甲子園を目指せる高校への進学を決めました。私の入学した年は、3年計画でチームを強くするという方針のもと、関西・中国地方を中心にレベルの高い選手が集まって来ていました。「この中で3年間野球を続けていければいい」と思うほど、周りのレベルは高く、毎日の練習は長く厳しいものでした。私は左投げが重宝され、バッティングピッチャーを務めていました。2年生時に甲子園出場。震災から2年目の年で、神戸復興の願いを込めて、多くの人が応援してくれました。練習のほかには、監督さんの教えであるボランティア活動も頻繁に行っていました。

ピンチもチャンスに変えてみせる

推薦で大学進学が決まり、入学を控えていたある日、「人生を変えた」と言えるアクシデントが起こりました。肩をこわし、推薦入学を断念。野球の道が閉ざされ、目標を失ってしまいました。入学後は、アルバイトに精を出す毎日。そんな大学生活の中、3年生の時に、母とアメリカ旅行に行ったのですが、これまで興味のなかった英語の必要性を強く感じたのです。英語ができれば世界が変わるだろうと思うようになりました。そこで、留学を決意。英語を自由自在に話せるようになり、野球に携わる仕事がしたいと考えました。もし、肩をこわさずに、あるいはこわした肩にムチを打って野球を続けていたら、旅行はできなかったと思うので、肩をこわしたアクシデントも悪いことばかりではなかった。人生を別のよい方向に変えたと言っても過言ではありません。

トロントへ語学留学

12992749_10156753908410398_16674116大学卒業後、トロントへ1年間の留学。トロントを選んだのは、大学教授をしている叔父からのすすめでした。まずは、語学学校からのスタート。クラスは、ビギナークラスなのですが、学校の担当者がそのクラスに入ることさえもためらうほどでした。この頃の英語のレベルは「How are you?」と言われて「Yes!」と答えていたくらいですから(笑)。しかし、せっかく英語を話す環境にいるのだから、学校にいる日本人と話す時にも頑張って英語で話すようにしていました。すると、その日本人たちが言うのです。「コウジは英語が話せないから、あとから日本語で話そう」と。悔しくて悔しくて「なにくそ!」と奮起。学校が終わったら図書館に通うようにし、閉館までびっちり勉強をするようになりました。この頃行っていたことの中に、1日5つの単語を覚えるというものがありました。1週間で25個、1か月100個。こうして徐々にボキャブラリーを増やしていきました。机上の勉強が軌道に乗ってきた頃、「やはり、会話をしなくては」と考え、勉強場所をコーヒーショップへ変更。道から窓越しに姿が見えるので、同じ下宿の仲間がみつけて話し掛けてくれるようになりました。自分自身も「次はこれを話してみよう」と、会話を楽しめるようになり、コミュニケーション力が上がっていきました。

進むべき道を歩むために

1年間の留学生活が終わる頃には、今後、自分がやりたいことが見えてきました。アメリカやカナダでは、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーなど、スポーツでたくさんの人を集めることができます。「すごい!なぜこんなに人を魅了できるのか」をいう思いから、スポーツマネージメントをきちんと学んでみたいと考えるように。そのためには、まず、資金づくりです。帰国して2年間、仕事をいくつか掛け持ちして、留学の資金をためました。次は、ワーキングホリデーでトロントへ。最初の1年は、仕事中心。2年目は大学院に入るための英語の勉強をして、3年目についに、トロントの大学院へ入学しました。少し時間はかかりましたが、どうしてもスポーツマネージメントの勉強がしたいという気持ちと、野球に携わり続けることが高校の監督さんへの恩返しだという思いが、自分を支えてくれました。

カナダに残る決意

大学院卒業後は、自分の留学経験を活かせる仕事をしたいと考え、カナダにで留学のサポートなどをする仕事に就きました。この仕事を7年間続けたのち、永住権を獲得。これまでやってきたことが実を結んだようで嬉しい反面、少し困ったことも起こってしまいました。仕事で独立するという話がある中、信頼していた人とうまくいかず、周りの人からも誤解されてしまったのです。「もう、日本に帰ろうかな」と思っていたとき、1番信頼していた人からも「縁を切る」と言われてしまいました。しかし、ここで事実と自分の気持ちをきちんと話さないといけないと思い、すべてを話すと、その人は「悪かった。これからは自分が君を全力で守る」と理解してくれました。この出来事があったおかげで、もう一度、カナダで頑張ろうという気持ちになれたのです。

巡ってきた大きな転機

12987928_10156753904980398_139937_3ここで大きな転機がやってきます。まず、私には政府関連の機関で仕事をしているカナダ人の知り合いがいました。彼女の3人の息子さんたちが野球をしているということもあって、普段からよく話をする職員の方でした。ある日、その職員の方のところに1件の電話がやってきます。電話の主は、サンダーベイ国際野球連盟のエグセクティブディレクターの方。トロントでU18の国際野球大会を開催しているが、日本のチームが参加していないため、ぜひ、参加するように呼びかけたいということでした。電話をとった彼女は真っ先に「山根さんの顔が浮かんだ」と言って、私をその連盟のディレクターに紹介してくれました。それから話が進み、私もディレクターの方が出席するグループミーティングに参加。スポンサー探しなら役に立てないかもなあと思いながら帰っていると、そのディレクターの方とたまたま同じ電車に乗ることに。すると、当時、トロントのメジャー球団・ブルージェイズで活躍していた川﨑選手のインタビューをするので、通訳できてほしいと言うではありませんか。私としては、素晴らしいチャンス。インタビューに同行させていただき、後日、ボストン・レッドソックスで活躍している上原投手ともお話する機会をいただきました。

出会いが生んだ新たな道

ディレクターの方は、さらに、おもしろい話を運んで来てくれました。バットを作っている日本の会社が、材料になるメープルの木を視察するためにカナダへやって来るから、ぜひ、会ってほしい、と。私自身も、たまたまカナダに木材工場をやっている知人がおり、話がどんどんよい方向進んでいきました。せっかくこうした出会いがあったのだから、仕事をつなげていきたいと考え「日本にある要らないバットをカナダで売ることはできないかな」と思っていたところ、なんと、日本から来ている社長が、同じことを提案してくれたのです。早速、立ち上げのために日本に帰国。カナダで会社をつくることになりました。さらには、大学に野球部をつくる話まで進むことができ、これまで目指してきたものが一気に花開いた時でした。

海外を目指す皆さんへ

12988159_10156753912475398_14531504最初はまったく英語を話せなかった私が、海外でここまでやって来れたのは、人との出会いを大切にしてきたからだと思います。もちろん、成功するためには英語力も必要ですが、それ以上に大切なのが人との出会いではないでしょうか。そして、日本にはこれまで一緒に野球をしてきた仲間がいたから、どんな時も頑張ることができました。これから海外へ行こうとしている皆さんにお伝えしたいのは、海外では自分から動かなくては何も始まらないということです。動くというのは自分でどんどん進んでいくことのように思えますが、人に頼ることも動くことです。私も日本にいたら意地を張って、誰も頼らずにいたかもしれません。でも、海外に来て自分の弱さを知りました。それに気づいた時、人の弱さも受け止めることができたのです。そして、道に迷った時は、自分の思いをまわりの友人に伝えてみてください。夢でも初めに持った思いでもいい。話すことで迷いそうになった道が、もう一度見えてきます。高校の監督からいただいた大切な言葉があります。「あせらず、あきらめず」。監督就任35周年記念の色紙に書いてあった言葉なのですが、私の座右の銘になっています。この言葉をモットーに、今後はトロントにバット工場を作ろうと動いています。工場ではオーダーメイドのバットを作り、そこで試し打ちや練習もできる施設をつくることが目標です!


【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年3月12日 (土)

Vol.18 大学野球留学:早川良太郎さん

成田高→カンザス大B25aa89c

名門・成田高校を卒業後、アメリカへ視察に行ったのがきっかけで大学野球留学を決意。全米屈指の野球強豪校・カンザス大学に入学するも英語力不足で1年間は野球部のマネージャー活動を強いられる。その後、見事メンバー入りを果たし4シーズン投手として活躍しチームに大きく貢献した。卒業後は日本へ帰国し、大手企業に勤めた後、父親の経営する会社の取締役に就任。現在はスリランカをはじめとする東南アジア圏の野球普及活動に尽力している。



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アメリカ大学野球のトップで輝いた日本人選手がいました。その名は、早川良太郎さん。大和魂を持ちながらアメリカ色に染まった留学時代。選手として、日本人として、大切なことは何か、貴重なお話をお聞きしました。
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アメリカ行きを決めた出来事

野球漬けの高校3年間を経て、私が選んだのはアメリカ留学でした。大学進学を控え、日本の大学のセレクションも受けていたのですが、合格はもらえず……。日本にこだわらず、アメリカに行くのもいいのではないか。同じ野球部の中に、アメリカ留学を目指している選手がいたことに刺激を受け、また、以前、父が仕事で駐在していたことで思い入れがありました。さまざまな思いが重なり、アメリカへ心が動き出したとき、さらに私の心をつかむ出来事が起こります。アメリカの大学野球部へ見学に行ったのですが、まず、なんて球場がきれいで大きいのだろう、と感動しました。次に、メジャーリーグ観戦。当時、マリナーズでプレーをしていた佐々木主浩投手が、クローザーとしてビシッと締める姿を観て、心底しびれました。そんな興奮冷めやらぬ翌日、驚くべきことが起こりました。スーパーへ買い物に行くと、なんと佐々木投手がいるではありませんか。握手をしてもらった瞬間、心が決まりました。

必要なのは英語力とアピール力

248986_10101047080129989_1825893008アメリカ行きを決めたからには、英語力をなんとかしなくてはいけません。この時点で私の英語のレベルは、自己紹介もできないレベル。留学に必要なTOEFLの勉強をする塾に通い始めたのですが、1回目のTOEFL試験のことは、今も忘れもしません。なんと、リスニングテストがいつ始まったのかわからなかったのです。父には「アメリカの4年制大学で野球をするということが、どういうことなのかわかっているのか」と言われ、高校の先生には、英語力について「相当頑張らなくては難しいよ」と言われたことで、お尻に火がつきました。

必死に勉強をし、インターネットでアメリカの大学野球についての情報を調べました。そして、高校卒業後の6月に渡米。語学学校に通いながら、大学の野球部が練習している場所を探して、自分を売り込みに行きました。そんな私のことを監督がおもしろがってくれ「今度、グラウンドに来なさい」と声をかけてくれるようになりました。実際に行ってみると、ブルペンで投げさせてくれると言うのです。その日はすこぶる調子がよく、力を発揮することができました。翌日からチームに合流。朝6時には朝練に参加していました。

充実した環境で野球と勉強ができる幸せ

1923563_561499169169_1130_nチームに帯同でき、思う存分野球ができるようになりましたが、ここで1つ問題が浮上。私はまだ大学の学生ではないので、正式な選手としての資格がないのです。せっかくチームに入れてもらえたのだから続けたい。この思いを伝え、父も交えて監督と相談したところ、1年間はマネージャーとして参加することになりました。1年後は何としても大学に入らなくてはいけない。気合いで語学学校を卒業し、晴れて正式な選手としてチームの一員となった日は、とてもすがすがしい気持ちでした。私の進んだ大学は、学校からのサポートが手厚く、ユニホーム、道具、遠征費など、すべて大学が負担してくれました。驚いたのは、私はコンタクトレンズをしていたのですが、それも野球に必要なものだからということで、費用が出たことです。また、サポートは野球に関してだけではありません。勉強のほうも頑張れるようにと、チューターを3人、さらには家庭教師までつけてくれました。「リョウタロウが落第しないように」と(笑)。もちろん、野球をする環境も最高でした。ロッカールーム、室内練習場、トレーニング室など、非常にきれいで充実していました。野球と勉強の両立は大変でしたが、こんなに充実した環境で野球ができ、留学生活が送れることは、本当に幸せだったと思います。

あの日あの時に呼び寄せたチャンス

Ryotarohayakawakuksu01_2選手としてようやくチームに入れたものの、チームメイトや監督やコーチとうまくコミュニケーションがとれず、あまり積極的になれずにいました。最初もハワイ遠征も一緒に行ったのですが、出番はなし。しかし、チャンスが巡ってきたのです。シーズンは終盤にさしかかった頃、その年の1位になった強豪チームと対戦。先発ピッチャーが1回表で4点を取られてしまい、ピッチャーを交代させなくてはいけないのですが、この日は金曜日。夜の試合と土日の試合のために、チームとしてはよいピッチャーを温存させておきたい。そこで、私に声がかかりました。2回から投げて、9回シャットアウト。それまでは長くて4イニングしか投げたことがなかったのに、いきなりこんなに長く投げシャットアウトしたので「この日本人すごいぞ!」と言われ、学内の新聞に大々的に載ることに。この日以来「リョウタロウはいける!」ということで、大事な場面で投げさせてもらえるようになったのです。この頃の私は、言葉が分からない中、野球と勉強の両立や試合に出られないもどかしさで精神的にまいっていました。このままでいいのか……。何かを打破したい気持ちでトレーニング方法を変え、基本に帰ってシャドーピッチングをするようにしました。すると風向きが変わり、チャンスの日を呼び寄せたのでした。

我が野球人生に悔いなし

260583_10100919952140499_38798901_2大学の野球部時代を振り返ってみると、走馬灯のように駆け巡ります。練習のお手伝いや雑用をしながら野球をしていたマネージャー時代。チャンスをたぐり寄せた1年生。サマーリーグに参加しましたが、クローザーとして多くの試合に投げ、肘をこわしてしまった2年生。疲労骨折と診断され、手術をしてリハビリとトレーニングに費やした3年生。カムバックした4年生。自分としては肩の調子は非常によいと感じていましたが、チームは若返りをはかっており、出番は少なくなりました。最上級生ともなれば、後輩の面倒を見て、チームを引っ張っていかなくてはいけません。

ドラフトにかからなければ、もう完全燃焼。最後まで野球をやりつくし、自分で決めて進んだ道をまっとうしたと感じました。マネージャーから始めて5年間。その生き方を後輩たちが見て慕ってくれました。最初は言葉が分からず苦労しましたが、アメリカ人になろうという思いで野球をしていました。自分が自分に言い聞かせていた約束があります。それは、決して誰の悪口も言わないこと。明るさやひょうきんさをウリにしていると、チームメイトとファミリーになることができました。コーチともよい関係でした。ボール磨きやグラウンドにトンボをかける私の姿を見て、驚いていたようです。アメリカの選手たちは、そのようなことは専門のスタッフに任せ、自分たちではしないからです。こうした5年間を経て、引退試合のあとのスピーチでは……まずは笑いをとりました。これが大事です。そして、締めくくりはこれまでのすべての思いを込めて、感謝の気持ちを伝えました。

これから海外を目指す選手へ

10338868_10102040922601709_579729_3日米の野球の違いは、まずアメリカは、練習にメリハリがあると感じました。スケジュールが細分化されており、プルペンも選手たちの授業のカリキュラムに沿って使う時間が決められていたほどです。これから海外を目指す選手には、現地のトレーナーさんの言うことをきくのも大事ですが、日本のトレーナーさんと話をするようにしてほしいと思います。というのは、私自身、アメリカのトレーニングにどっぷりはまってしまい、無理に身体を大きくしてしまったからです。元々アメリカの選手とは体格が違います。それなのに同じものを同じだけ食べていては、無理が生じてくるのは当然です。日本のトレーナーさんに診てもらえば、無駄な筋肉がついていることもわかったはず。定期的にきちんとメンテナンスをしていれば、故障はしなかったかもしれません。次に、大和魂を捨てないでほしい。その上でアメリカの生活や仲間に柔軟に対応し、馴染んでいくようにしてください。そして、やりたいことや思いを口に出してみることは大事です。たとえ今の時点で英語ができなくても「将来、チャンピオンになる!」という思いだけでも、英語で語ってみるのがいいですよ!

11698489_10153445121779723_81594906私自身、アメリカに行ってからは、すべては野球のために動いていました。勉強との両立も試験をパスすることも。「すべては野球のため」それは今も変わっていません。今はスリランカの野球事業に携わっています。活動場所はスリランカに移りましたが、現地の野球発展に尽力したいと思っています。さらには東南アジア全体に野球が普及、発展していくように、できる限りのことをしていきたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年2月24日 (水)

Vol.17 トレーナー留学:大久保 研介さん

Wbc_6_2豊橋南高→アリゾナ州立大

高校時代にメジャーリーガーのコンディショニングトレーニングに興味を抱き卒業後に渡米。スポーツ名門校・アリゾナ州立大学に入学し最先端のトレーニング理論を学ぶ。卒業後は日本の学校で鍼灸の資格を取得したのち、台湾プロ野球チームのトレーナーに就任しプロトレーナーとしてのキャリアを開始。チームでの活躍が評価され、日本人としては初となるWBC台湾代表チームのトレーナーに任命された。2015年からは中日ドラゴンズなどで活躍したチェン・ウェイン投手(現MLBマーリンズ)の専属トレーナーとして活躍中。

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アメリカではトレーナー、日本では鍼、それぞれの勉強と資格取得。そして、台湾プロ野球チームに就いたのち、メジャーリーガーの専属トレーナーとなった大久保研介さん。「これだ」と決めたら前進あるのみ。1つの台湾プロ野球チームを変えたと言っても過言ではない、貴重なお話しをお聞きしました。
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原点は身体への思い

アメリカという場所に気持ちが向いたのは、小学生の頃でした。当時、自分がアメリカで勉強や仕事をすることになるとは思ってもいませんでしたが、テレビで放送され始めたメジャーリーグの試合を観て、そのダイナミックさに心惹かれたことを覚えています。その後、中学、高校と野球を続け「うまくなるにはどうすればよいか」と、常に考えていたものの、チームにはトレーナーがおらず、相談はできません。部活が終ったあと、スポーツジムに通っていましたが、ここでも専門的に教えてくれるところまではいかず、自分で本を買って勉強をしていました。日本ではひたすら走ることがトレーニングのようになっていますが、ほかにもトレーニングの方法はあるのでないかと考え、専門的にトレーナーの勉強がしたいと思うようになったのです。情報収集をすると、スポーツについて学ぶには、アメリカが最適だということがわかりました。仮に、ロシアがこの分野に関して進んでいたのであれば、迷わずロシアへ行っていたと思います。

寮と図書館を往復する日々

Photo高校卒業後に渡米。アスレチックトレーナーの資格が取れる大学を選んだのですが、なんと、入学した年に認定校ではなくなってしまうという、予期せぬ出来事が。入学後半年で転学を余儀なくされてしまったのです。次は、規模が大きくスポーツ生理学が有名なアリゾナ州立大学へ入学しました。アリゾナ州立大学は、野球だけではなく、アメリカンフットボール、アイスホッケー、バスケットボールなど、主な大学スポーツが強いということも選んだ理由のひとつです。奨学金をもらい、希望どおり入学できたものの、やはりアメリカで名の通った大学。最初の試験で初めてのBを取ってしまいました。「うかうかしていられないぞ」と覚悟を決め、そこからは家と図書館を往復する日々。授業は、先生がパソコンを使ってどんどん進めていくため、予習をしっかりし、授業前には全部覚えるつもりでのぞんでいました。しかし、それでやっと6~7割わかる程度。その頃の生活は、始業前に2時間図書館で勉強し、次の授業の合間にも図書館、さらに放課後も図書館。とにかく、授業と寝る時間以外は図書館にいるような毎日でした。教科書の内容が頭に入っており、見なくても何ページに何が載っているかがわかっていたほどです。こうして、厳しい評価の中、なんとかギリギリで生き残ることができました。

進むべき道が開けた時

3アリゾナの夏は暑く、体調管理が難しかったです。油断をすると熱中症になりかねない。私自身は、食生活の乱れから湿疹ができてしまったこともありました。こうして慣れない土地で孤軍奮闘するうちに、なんとなく将来が見えてきてもいました。そんな中、今後の進路を決める転機が訪れたのです。全米から選手を大勢集めて試合をする、メジャ-リーグのショーケースを受けることになりました。高校の部活を引退してから本格的に野球をしていなかったので、まずは身体づくりからしなくてはいけません。思うように動かせない部分があるのを痛感していたところ、日本から来たスタッフメンバーの中に、鍼の資格を持っている方がおり、施術をしてもらいました。そうするとびっくりするほどよく効き、一発で治ったのです。この技術はすごい!目からうろこでした。鍼とコンディショニングを融合させれば、ケガのない身体がつくれるのではないか。卒業後は、日本に戻って鍼の勉強をしよう。はっきりと進むべき道が決まりました。帰国後は、アルバイトをしながら学費を稼ぎ、3年間かけて鍼の資格を取得しました。よく「アメリカの大学を卒業したのに、日本でさらに3年もかけて新たな勉強をするなんて大変だったでしょう」と言われるのですが、自分の力を試せると思うと勉強はおもしろく、大変だとは思いませんでした。技術があれば、きっと世界で勝負ができる。アメリカで成功したければ、アメリカ人と同じスキルを持っていてもダメ。プラスαが必要。このような思いが私を奮い立たせてくれました。

台湾プロ野球チームのトレーナーに就任

530932_118478824979202_412899926_n鍼の資格を取得後、最初につかせていただいたのは、プロゴルファーの方でした。常々プロの選手のトレーナーになりたいと思っていたので、目標の一つを達成することができました。自分が学んできたことをそのまま適用するのではなく、選手と話し合い、状態や希望に合わせて進めていきました。こうしてプロゴルファーのトレーナーとして1年が過ぎたころ、大きな転機が訪れました。台湾プロ野球チームから声が掛かり、トレーナーとして就くことになったのです。実際、チームに入ってみると、トレーニングの方法が日本と似ていました。例えば、ひたすら走る、キャンプが長いなどです。そして、私が就いた当初、ケガ人が多いことに驚きました。痛かったら痛み止めを飲めばいい、身体がかたくなるからストレッチはしない、というような少々偏った考えをしている選手もいました。これではせっかく身体を鍛えたり練習をしたりしても、ベストな状態でパフォーマンスができていない。まずは、全員が同じメニューをすることをやめよう。選手一人ひとりに合わせたメニューを考えるようにしました。具体的な治療法を伝えることで、選手たちの考え方も柔軟になっていきました。選手一人ひとりとのコミュニケーションを大切にし、医者、トレーナー、選手の連携がきちんと取れるようシステムを整えました。その結果、やりやすくなったと監督や選手からも評価され、WBCの台湾チームのトレーナーとして呼んでもらえることになりました。最初は自分のチームの選手を診ていたのですが、要請があり、ほかのチームの選手も診るようになりました。2009年のWBCアジア予選、東京ドームで行われた台湾と日本の伝説の試合時、私は台湾側にいたのです。これも不思議な縁ですね。

台湾出身メジャーリーガーの専属トレーナーとして

2015年より、台湾出身で、元中日ドランゴンズ、現在メジャーリーグのマーリンズでプレーをしているチェン投手専属のトレーナーをしています。チェン投手がトレーナーを探していることを聞き、テストを受けて採用されました。個人のトレーナーなので、チームに帯同できるときばかりではありません。ホテルに行ったり自宅に行ったり臨機応変に対応をしています。2015年のシーズン、チェン投手は11勝をあげ、防御率もよく、チームに貢献しました。トレーナーとして役に立てているのなら、本当に嬉しい限りです。

日米台湾の野球やトレーニング法を経験して

579299_172332392927178_806447764_n日米台湾の野球を見て、アメリカはコーチがあまり干渉をしないということに大きな違いがあると感じました。日本は選手主体というより、監督やコーチがいろいろなことを決めているように思います。また、日本や台湾は走ることが多いですが、アメリカはウォーミングアップにかける時間や内容が違います。選手たちは、自分で身体のことをきちんと考えているのです。アメリカはトレーニングそのものが変わってきています。以前はウエイトトレーニング中心でしたが、今はシステム化が進んでいます。というのは、いつなぜこれをするのか、理由がはっきりとしているのです。さらに、そこに栄養に関することも加わります。そして何よりアメリカのよい点は、プロとアマの壁がないこと。私がインターンをしていたジムでは、小学生からトレーニングをしていましたが、同じジムをプロの選手も利用していたので、間近に憧れの選手を見ることができていました。このような環境の中、子どもたちは夢を持って、トレーニングやプレーをすることができるのです。

海外を目指す人に伝えたいこと

Img_1769_3これから海外を目指す選手に伝えたいのは、年齢はただの数字だということです。もうこんな歳だからとか、まだ若すぎるから、ということは考えないでほしい。イギリスの政治家で首相も務めたスタンリー・ボールドウィンという人のこんな言葉があります。「志を立てるのに遅すぎることはない」。自分が行こうと思ったときが行くべきときなのです。自分の中でできない理由を作ってしまうことほど、もったいないことはありません。何事も最初の一歩がなければ二歩目はない。アクションを起こすのみです。自分が歩く道は自分でつくるつもりで、飛び込んでいってください。たとえ言葉が通じなくても、熱意があれば思いは通じるものです。身体に関することは、常に変化していきます。私自身も日々、勉強していかなくてはいけないと思っています。自分自身のアップデートとも言えますね。今度は、アメリカのスポーツ医学に特化した鍼の資格取得を目指します。アメリカのチームは、まだ鍼の施術をしているところは少ないので、もっと広めていきたいと考えています。私が初めて鍼をしてもらったときに受けた衝撃を、できるだけ多くの選手に味わってもらいたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2016年1月29日 (金)

Vol.16 大学野球留学:岡野 智紀さん

Okanotop広島城北高→ノース・グリーンビル大

日本人メジャーリーガーのパイオニア・野茂投手の活躍に魅了され、高校卒業後にアメリカ大学野球留学を決意。大学硬式野球部では、投手として活躍し、スポーツマネジメント学位を取得。卒業後はニューヨークのスポーツアカデミー会社に6年間勤務し、現地の子供たちに日米の野球理論を交え指導に従事。帰国後、コンサルティング会社を経て、ベースボールコニュニケーションに入社。


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中学生のときに持ったアメリカへの憧れ。時が経つほど強くなり、憧れから目標へと変わっていきました。思いを成し遂げるためなら、壁が立ちふさがっても、後戻りはしない。いくつかの困難を乗り越えて、憧れを現実にした岡野智紀さんのお話をお聞きしました。
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野茂選手のピッチングに魅せられて

あれは、中学生のときでした。テレビで観ていたメジャーリーグの試合で、当時、ドジャースでプレーしていた野茂英雄選手がノーヒットノーランを達成したのです。日本人が世界に通用している、アメリカの野球ってどんな世界なんだろう、と心が揺さぶられました。それまでアメリカへの興味はなく、日本で野球を続け、高校では甲子園、その後はプロを目指すものだと思っていました。野茂選手がノーヒットノーランを達成したこの日、私の野球人生にとって、大きな分岐点となったのです。

「反対」という壁を乗り越えて実現したアメリカ留学

Okano_5高校時代は、甲子園を目指し、卒業後はアメリカに行きたいと思っていました。ただ、この思いは自分の心の中だけにあり、なかなか両親に話すことができませんでした。持ち続けてきたアメリカへの思いを話したのは、卒業間近の高校3年の2月。予想はしていましたが、大反対されました。「環境も言葉も違う場所へ行って何ができるんだ」と。まだこの時点では、私の持っているアメリカへの思いがうまく伝わっておらず、「日本の大学へ行きなさい」の一辺倒でした。しかし、ここであきらめてしまっては、これから先ずっとアメリカにはいけないだろう、日本で野球を続けることでアメリカ行きを断念してしまうのではないかと考え、説得を始めました。

私が話したのは、「4年」という時間がほしい、期間を決めてメジャーを目指す、それでだめなら日本に帰って勉強するから、ということでした。説得には時間がかかりました。しかし、私も頑固な性格。それを知ってか、最終的に父が「そこまで言うなら、やれるだけやってこい」と言ってくれたのです。私を信じてアメリカ行きを許してくれた両親を安心させるためには、まずは、現地の大学へ入らなくていけません。行くと決めたからには、死に物狂いで英語を勉強しました。塾へは通わず、独学で1日10時間。アメリカで挑戦したいという気持ちが、私を奮い立たせてくれました。

野球ができない!

Okano_6高校卒業後の6月に渡米。最初の3ヶ月間は、語学学校に通いました。TOEFL500点をクリアし、9月には大学へ入学。「大学に入って野球をする」という目標があったので、頑張れました。しかし、ここで思いもよらぬことが。いよいよアメリカで野球をする日がやってきた、と意気揚々としたのも束の間、チームに入ることができないのです。大学に入ればチームにも入れるものだと思っていたのが、認識違いでした。これまで当たり前のようにしてきた野球ができない。これほどもどかしいことがあるのかと思いましたが、とにかく今やれることをやろうと、一人でトレーニングとランニングを続けていました。やはり、時にはくじけそうにもなりましたが、チームの練習を見に行き、「何かできることはないか」と、コーチにアピールもしました。そして、チームの選手たちが練習している横で、壁当てをしてピッチングを披露。誰も声を掛けてくれることはありませんでしたが、球場に行くと、本当に心が晴れました。「こんな場所で毎日野球ができるんだ」と、ワクワクした気持ちが今でも忘れられません。また、英語さえ鍛えておけば、チャンスは巡ってくるだろうと思い、勉強のほうも気を抜かずに取り組みました。結果、成績はオールAに。とにかくできる限りのことを、毎日コツコツと続けていました。

おとずれた転機

Okano_3大学2年になり、転機がやってきました。サマ―リーグに参加し、アメリカでの野球が始動。ようやくスタートラインに立ち「やっと野球ができるんだ!」と、この時ばかりは涙が出ました。しかし、これまでチームに入っていなかった自分は、そう簡単には試合に出ることはできません。救いだったのは、コーチが「日本人の選手、好きなんだよ」と声を掛けてくれたこと。元メジャー選手で、人柄のよいコーチでした。そんな中、リーグが始まって10試合目、3-2で負けているところで突然、コーチが「お前いくよ」と。驚いている間もなく、ピッチング練習も存分にできていないまま、マウンドへ。その場の準備はできていなかったものの、これまでの地道なトレーニングが実を結んだのか、三者三振に。日本にいる時、球は速いほうではありませんでしたが、この時点では145キロ出るようになっていました。「アイツやるな」と、周りからの評価もグッと上がり、試合を観ていた大学チームのコーチから「全額奨学金を出すからうちに来ないか」と、オファーがありました。これで親にも負担をかけなくてすむ。試合後に電話をすると、喜んでくれました。壁にぶつかりながらもくじけずやってきてよかった、と心から思った瞬間でした。

自分を見失いそうなときは原点に戻って

Okano_7サマ―リーグ後、独立リーグからもオファーがきたのですが、迷った末、勉強もしたいしする必要があると思い、大学で野球をすることに決めました。熱心に誘ってくれたコーチがいる大学へ転校。周りは自然にあふれ、車もほとんど通らないような所でした。もちろん日本人がいるはずもなく、まだまだ野球英語がわからずに、思うようにコミュニケーションが取れない毎日。勉強も野球も中途半端になっている気がして、ストレスを感じていました。そんな自分を奮い立たせてくれたのは、アメリカへ渡るきっかけとなった野茂選手の映像。なぜ自分はここにいるのだろう、そんな原点を思い出させてくれました。迷っていても仕方がない、チームメイトと仲良くならなければ、何も始まらないと考え、できるだけこちらから話しかけるようにしました。そうすると、チームメイトたちが知っている日本語を使ってギャグにしてくれたり、お箸の使い方を教えてと言ってきたり、楽しく接することができるようになっていきました。大学では、スポーツマネージメントを専攻。グループで学習をすることがあり、とても楽しく学ぶことができました。

日米野球の違い

Okano_11年からベンチ入りを果たし、日米の野球の違いを感じたのは、何と言っても練習の短さでした。ピッチャーはブルペンで投げて終了。物足りないからさらに練習をすると「コーチからの指示がないだろ」と言われるほどでした。野球をやらされているという感覚は、存在しません。あるのは「皆が野球を楽しんでいる」という事実でした。野球を楽しみながら、私がやるべきことだと考えていたのは、まず、試合で結果を出せるように自分を持っていくこと。アメリカ人は、チームを離れて個々がしっかりと自分のことを考えてトレーニングをしているのです。2つ目は、チームメイトとのコミュニケーションを大切にすること。そのためには雑用もすすんでするようしていました。

納得のいく終止符

Okano_44年生のとき、のちにメジャーまでのぼりつめた選手と対戦したのですが、見事にホームランを打たれてしまい……。しかし、これで自分の気持ちが吹っ切れたのは確かです。メジャーに行くような選手は、やはりひと際違います。私は、自分の野球をやり切ったと感じました。卒業後は、アメリカで就職。実は、大学在学中に父を亡くしていたのですが、母は「帰って来なさい」とは言わず、「決めたからにはやるだけやりなさい」と言ってくれました。就職先は日本人の方が経営している会社で、小中学生の野球チームの管理、野球教室での指導が、主な仕事内容です。利用者の60%がアメリカ人、40%が日本人でした。結婚を機に帰国するまで、アメリカで野球に関わる仕事ができたのは、とても良かったと思います。

留学を考えている選手たちへ

Okano_8これから留学しようとしている選手に対して思うことは、後悔だけはしてほしくないということです。そのためには、挑戦する気持ちが大事。肉食になって、突き進んでほしい。「今もガツガツしているぞ」と思っているなら、それを生かせるのは日本だけではないことを一度考えてみてほしいです。そして、アメリカの野球で成功するためには、まずは、何よりも英語です。言葉ができないと、どれだけ野球がやりたくてもできません。英語が苦手だとしたら、まずは漫画から始めて、簡単ことでいいので英語に触れることから始めよう。1日10個でもいい。最終的には、ただ意味を覚えるだけではなく、見て即反応できるように。野球に例えると、自然にボールに反応するような感覚で、英語を自分のものにすることを目指してほしいです。野球に関しては、正しい身体の使い方を学ぶべきです。これができるかできないかで、ずいぶん伸びしろが変わってきますから。そして、壁にぶつかってもくじけずにとにかく前へ進むこと。日本人の野球スキルは高いですから、どこにいても自信を持っていいと思います。私自身のこれからは、アメリカ野球のおもしろさを、もっと多くの人に伝えたいと考えています。大げさな言い方をすれば、日米の架け橋になりたい。そんな思いを胸に進んでいきたいですね。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2015年6月26日 (金)

Vol.15 トレーナー留学:一原 克裕さん

310668_2510166719283_391225983_n_2日大習志野高→早稲田大→ハワイ大学マノア校→ブリッジウォーター州立大学大学院→MLBシアトル・マリナーズ マイナーリーグアスレティックトレーナー

高校時代はエースでキャプテンとしてチームを牽引。早稲田大学在学中は、同校アメフト部で学生トレーナーとして活躍。ブリッジウォーター州立大学在学時に、MLBマリナーズをはじめNFLやMLS球団で学生インターンを経験し、卒業後はMLBマリナーズのマイナー球団にてアスレティックトレーナーとして若手選手の育成に従事。帰国後はパーソナルトレーナーとして活躍する傍ら、NPOスポーツセーフティージャパンに所属しスポーツ現場の安全性と環境整備の普及に努めている。2013WBCでは中国代表チームのトレーナーとしても活躍した。

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学生トレーナーとして参加したフットボールの試合。アメリカチームの対応を見て、トレーナーとしての心が揺さぶられた一原克裕さん。アメリカに渡り、決して平坦ではない道を歩き続け先に、見つけたものがあります。そんな一原さんの激動の7年間を振り返っていただきました。
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野球選手からトレーナーへ、転身を決めた日

Unnamed高校時代、キャプテンとして何とか毎日プレーをしてはいるものの、腰と首を痛め、大学で野球を続けるのは難しいと考えていました。自分自身が怪我をし、地元の接骨院で筑波大出身のトレーナーさんに身体を診てもらっていたこともあり、トレーナーという仕事に少し興味を持っていました。進学にあたり「トレーナーの勉強をするのもいいな」と思い始めていた頃、ある有名なトレーナーさんの存在を知り、「自分もトレーナーになりたい」という気持ちが強くなったのです。その方が教授をしている筑波大へ進もうと、2度受験に挑戦しましたが、残念ながら叶わず、早稲田大への進学を決めました。ここから、私のトレーナー人生が始まったのです。

学生アスレティックトレーナーとして踏み出した大学時代

Unnamed_1早稲田大学では、硬式野球部でのトレーナー活動を熱望していました。しかし、様々な異なる競技の学生トレーナーの活動を見学させてもらう中で、自分の中のアスレティックトレーナー像に一番近かったのはアメリカンフットボール部だと感じ、トレーナーとして入部しました。入部後に知ったのですが、日本で最初に米国公認アスレティックトレーナー(ATC)の資格を取られた鹿倉二郎氏がヘッドアスレティックトレーナーであり、メディカル部門はとても充実したスタッフが揃っていたのです。学生トレーナーもアスレティックトレーナーとストレングストレーナーがそれぞれ設けられ、日々現場で実践を通して学べる環境に身を置くことができました。こうして大学4年間は、日本一を目指しアメフトに大きく関わることになったのです。

学生トレーナーから職業としてのトレーナーへ

大学1年の時、アメリカ・アリゾナで行われたトレーナー研修に参加しました。そこで、アメリカのスポーツを直に見ることができたのはもちろん、職業としてのトレーナーについてよく知ることができました。特に、現地で働いている日本人トレーナーの姿を見ることができたのは、大きかったです。ただ、自分が同じようにアメリカでアスレティックトレーナーをするということは、まだ想像がついておらず、「大学の4年間、アメフト部で学生トレーナーとして全うしよう。その上で仕事にするかどうか考えよう」と心に決めました。そして、4年間やり通した結果「仕事にしたい」と、決意が固まったのです。

私の心をアメリカへ向わせた出来事

Unアスレティックトレーナーを仕事にしようと決意をしたのですが、この時点で、アメリカへの憧れや米国公認アスレティックトレーナーになるという気持ちはありませんでした。しかし、そんな私の心がアメリカへ向うきっかけとなった出来事があったのです。2008年に行われたU19日米対抗戦が日本で行われ、私はアメリカサイドに学生トレーナーのリーダーとして入りました。英語は話せないので、必死で行動する中、試合終了間際に選手が脳しんとうを起こし意識を失って動かなくなりました。アメリカチームのアスレティックトレーナーとヘッドコーチ、そして私は急いで選手の元に駆けつけました。これまで大学アメフト部の4年間現場で学んできたものの、頚椎固定をしてスパインボードに乗せて固定し搬送するほどの怪我に直面するのは自分にとって初めてのシチュエーション。出来るだけサポート役として責任を全うしようとしていましたが、アメリカ人のアスレティックトレーナーとヘッドコーチが迅速に対応し、選手を和ませながら身体のチェックをしていく。そして、レフリーも選手の異変を見逃さないとっさの判断をする。もう、それは完璧だと感じました。アメリカのチームは、ここまで迅速で素晴らしい対応ができるのかと、心が震えました。そして「目指すところはここだ!」と思ったのです。「アメリカで学ぶべきだ。アメリカに行こう!」。この日を境に、人生が動き出しました。

ハワイ大学を選んだ理由

Unnamed_2半年間、日本で英語の勉強をし、大学卒業後の7月にハワイへ渡りました。留学先としてハワイ大学を選んだのには、理由があります。渡米前に、高校のラクビー部で臨時トレーナーをしたのですが、怪我をした選手をケアしたり、段階的に競技復帰させる仕組みがまったくありませんでした。それを見て、仕組みが整っておらず手が届いていない場所を自分の手で変えていきたい、と思うようになったのです。その頃、ハワイ州が条例で全ての公立高校にアスレティックトレーナーを雇い、配置している歴史を知り、なぜ条例化が可能になり、誰が動いたのか、全てを知りたくなりました。

ハワイに渡ってからは、大学で大学院へ進学するために必要な単位をとることにし、語学学校には通わず、学校の授業で生きた英語を学ぶようにしました。そして、ここでも学生トレーナーとして、アメフト部で活動しました。本場での活動は、とても楽しいと感じるものの、まだ英語がなかなか上手く話せなかったので、「今日もひと言も話せなかったな……」と、1日が終わってしまうこともあり、日によって充実感に波がありました。ただ、話せなかった分、テーピングは誰よりもきれいに巻くことができ、技術が選手とのコミュニケーションのきっかけになりました。

トラブルを乗り越えて

230773_658502902978_70690_nこうして奮闘する中、とんでもないことが起こりました。大学院のプログラムが消滅してしまうというのです。「卒業はできる」と言われたものの、この先どうなるかわからない。ハワイで取った単位を認めてくれる学校を探した結果、マサチューセッツ州にあるブリッジウォーター州立大学の大学院に受け入れてもらえました。せっかく入った大学院のプログラムがなくなってしまうというまさかの出来事。(現在、プログラムは復活しています)。リサーチや手続きは、たとえ日本にいてさえも大変なことなのに、英語もまだ上手く喋れない段階で転校とアメリカ本土への引越しは正直不安が大きかったです。ただ、ハワイ大学のクラスメートの半分が一緒だったのは、精神的に救われたなと思います。ブリッジウォーター州立大大学院へ転校を決め、アメリカ本土に渡りました。ブリッジウォーターは、ボストン近郊の田舎町でのんびりした場所。落ち着いて勉強をすることができました。

粘り勝ちで開いたインターン参加への道

Unnamed_34か月間ある夏休みには、最初の2か月はプロアメフトチーム(NFL)で、後半の2か月はプロサッカーチーム(MLS)でインターンをしました。サッカーチームでは、日本人アスレティックトレーナーの下、プロチームで働く事とはどういうことなのか、これからアスレティックトレーナーを職業とする中で何が大切なのかを学びました。ただ、NFLサマーインターン参加の採用をもらうまでは、かなり苦労をしました。書類をチームへ送り連絡を待っている時、その後採用されるNFLチームでイヤーインターンをしていた先輩に誘われ、チームのパーティに参加する機会がありました。そして、そこには全てのメディカルスタッフが来ていたのです。

「送った書類は見て頂けましたか?ぜひ、お願いします!」と、ヘッドトレーナーに積極的に話し掛けて直談判。その場では「わかった」と言ってくれたのですが、2か月間音沙汰なし。「せっかく会うところまでいったのに、このまま引き下がれない」と思い、メールと電話をし続けました。すると、そのヘッドトレーナーが私の大学院へ講義に来ることがあり、「また、会ったな!」と挨拶を交わしました。大学院の教授も私のことを薦めてくれ「よし、わかった!」と言ってくれたので、今度こそは大丈夫だろうと思いました。しかし、またまた連絡は来ません。どうしたものかと思っていると、ようやく夏のキャンプの1週間前に、採用決定。全チームから断わられていましたが、最後まであきらめずに動いた結果の粘り勝ちでした。

インターンを経てつかんだ正式採用

Unnamed_4NFLでのインターンは想像以上にハードで、この時が人生で1番きついと感じました。しかし,NFLの何万人もの観客のもとで行うゲームは圧巻。鳥肌の立つような感覚が忘れられず、やりがいを感じました。そして2011年スプリングトレーニングでは、イチロー選手のいるマリナーズで2週間のインターンを行いました。すぐそばでイチロー選手を見ることができたのは、トレーナーとしても非常に勉強になったと思います。卒業後は、アメリカに残ってもっと学びたいという気持ちが強く、がむしゃらに就職活動をしました。しかし、書類を80通ほど送り、面接まで行けたのは4回。電話で話すときには、英語の壁にぶつかる。「もう、無理かな」と思い始めた頃、プロアメフト独立リーグのチームから「採用」の連絡が入ったのです。「1週間後に来られるなら、採用するよ」とのこと。急でしたが「仕事があるならどこにでも行く」という強い気持ちで、身体一つボストンからカリフォルニアはサクラメントへ飛びました。状況も生易しいものではなく、トレーナー3人で60人の選手を診て、雑用や事務も含めてすべてを行わなければなりません。始まる前に早く行って、準備をして整える。どうすれば早く進めることができるのか、ここでは、早稲田大時代の経験が役に立ちました。そして、チーム帯同時にはどう動けばよいか、何を持っていけばいいか、インターンで学んだことが活かされました。仕事は大変でしたが、これまでやってきたことが確実に実を結んでいく毎日でした。

再び、マリナーズへ

Dscn6291thumbnail2_2プロアメフト独立リーグのチームで働いたのち、以前インターンをしていたマリナーズに採用されました。3シーズンの間、従事したのですが、徐々に役割が増えていき、インターンの時にはできなかった仕事もフルタイムで働く中でできるようになりました。2年目からは、組織の一員として動いていることを実感したものです。そんな中、ここでも突然の出来事は起きるものですね。2年目、3年目共にシーズン中盤で担当チームが変わり、結果としてシングルA, トリプルAにも帯同し、シーズンを戦う経験を積むことが出来ました。しかし、この時の私はもう、こういった急な出来事にも動じなくなっていました。これまで、大学院のプログラムが変わって転校、1週間後にはチームに合流など、予期せぬことをこなしてきたため、急なことにも対処できる力がついていたのだと思います。

アメリカ生活を振り返って

Unnamed_5アメリカにいた7年間を振り返ると、「今」を生きることに精一杯だったなと感じます。時には流れに任せ、その時その時をクリアするために過ごしてきた、と言うべきでしょうか。「もっとアグレッシブにすればよかったな」と、思うこともあります。私はもともと人見知りをするほうで、人付き合いも決してうまくはありませんでした。アメリカでは会話のテンポについていけず、苦労しました。また、どこか日本人的な部分を捨てきれずにいる自分にも、もどかしさを感じていました。しかし、アメリカ生活を経て、物事に対してのハードルはずいぶん下がったと思います。たとえば、まったく知らない人の中に1人入れられても、「郷に入っては郷に従え」を実践し、協調していく力がつきました。今は、新しい場所に行ったり初めての人に会ったりすることにも、すっかり抵抗がなくなっています。

これから海外へ留学しようとしている皆さんへ

Unnamed_6とにかくやりたいことがあれば、迷わずどんどん進んでください。どの道に進むのが正解なのかを悩むよりも、自分がその時点で選んだ道を自分の力で正解にする、そんな心持ちで突き進んでください。英語はきれいに完璧に話す必要はない。あくまでコミュニケーションの手段です。そのかわり、その国の文化をすべて受け入れるくらいの気持ちで臨んでほしいです。海外留学は、多くの素敵な出会いがあります。私も、ハワイやアメリカ本土至るところに知り合いができたことを、本当に嬉しく思っていますし、また再会できる日を楽しみにしています。
今後は、NPO法人スポーツセーフティージャパンとして、アメリカで経験し学んだ全てを糧にして、留学当初の目標でもあった日本で子供たちが安全に楽しくスポーツができる環境作りを目指します。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2015年1月 6日 (火)

Vol.14 トレーナー留学:高橋 雄介さん

Top山形・寒河江高 → テキサス州立大学サンマルコス校 → サンノゼ州立大学大学院 → MLBロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム

高校時代は、外野手として活躍。卒業後、米国テキサス州立大学にスポーツトレーナー留学。大学在学中は硬式野球部のアシスタントトレーナーとして活躍し、NATA認定アスレティックトレーナー取得。大学卒業後の09年、MLBフィラデルフィアフィリーズ傘下のマイナーチームでトレーナーのインターンシップを経験。その後、サンノゼ州立大学大学院に進学し同校硬式野球部のヘッドトレーナーを務める。同校でキネシオロジー学部修士号を取得し、14年よりMLBロサンゼルス・エンゼルスのアスレティックトレーナーに就任。マイナーリーグの若手選手の育成に従事している。

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目標に向かって一生懸命進む道で巡り合った人たちとのつながりがもたらした、高橋雄介さんのサクセスストーリー。人との出会いや縁がどれだけ大切かを教えてくれる、素敵なお話をお聞きしました。
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アメリカ留学を決意するまで

中学生の早い段階で、漠然とアスレティックトレーナーになりたいと考えていました。その時は「プロ野球選手をケアをする人」というイメージだけを持っていたのですが、高校生の時にトレーナーに関する本を読むようになり、学ぶなら本場のアメリカがよいということはわかりました。ただ、自分が留学をしてアメリカで学び生活をしている姿は、まったく想像がつきませんでした。高校卒業後は日本の大学に進学をするつもりで受験をしましたが、敢え無く失敗。浪人生となったのですが、このまま勉強を続けていても本当に自分のやりたいことに結びつくのだろうかと、疑問を抱き始めたのです。この時は両親にも心配をかけてしまうほど思い悩んでいたと思います。そうして悩んだ末、出した答えは「アメリカへ留学をしよう」でした。高校の同級生がアメリカへ留学していたこともあり、情報を聞いたりアドバイスをもらったりしたのがとても大きく、迷っていいた私の背中を押してくれました。予備校を辞め、留学準備のために自宅で英語の勉強を開始。野球選手として、受験生としてやり残したことがあると感じていたので、その悔しさが自分を奮い立たせ、英語の勉強を頑張ることができました。

教授との会話が支えてくれた留学生活

3高校を卒業して約1年後の5月に渡米。大学へ進学する頃にはTOFELの点数は上がっていたのですが、やはりスピーキングに苦手意識がありました。大学へ入学して間もない頃はクラスメートと思うように話せず、話し相手はもっぱら教授でした。質問したり相談したりしたことに対して、教授はいつも親身に応えてくれました。たくさんの生徒がいる中で、真剣に向き合ってくれたことは、本当に有り難く感謝しています。おかげで時間が経つにつれ、入学当時からほぼメンバーが変わらないクラスメートとも打ち解けられるようになりました。お互いに助け合いながら勉強ができたことは、よい思い出です。ただ、まだ学校の勉強と活動に一杯で、長期休みに学校外でインターンをする余裕はありませんでした。2年が過ぎた頃、教授の勧めで応募した奨学金をもうらことができたのです。これまでの苦労が1つ報われた達成感を味わうことができ、そこから学校外の活動にも目が向くようになりました。

人生を変えた2週間のインターン

Kinesio_mlb_spring_training_inter_2まずは、MLBサンディエゴ・パドレスで2週間のインターンを経験することに。恵まれた自然、施設の充実、選手たちの人柄のよさに感動し、人生を変えたといっても過言ではありません。チームの皆が突然入ってきた私を歓迎してくれ、終わった後も「このままでは終わりたくない、何らかの形で続けたい」と強く思うようになりました。大学に戻ってからも野球の授業で、インターンで学んだことを紹介したりもしました。次の夏休みもインターンに参加しましたが、すべては最初のインターンがあったからこそつながったことであり、2回のインターンでメンタリティの基礎を学ぶことができました。

卒業前には、マイナーリーグのチームへ片っ端からコンタクトを取ったのですが、どこも定員いっぱいだと断れてしまい、進路が決まらないまま卒業。あきらめずに活動を続けようと思っていた矢先、一度断られていたMLBフィラデルフィアフィリーズ傘下のマイナーチームから「空きが出たから」と連絡がきたのです。渡りに船のような気持ちで面接を受けたところ、これまでのインターンの経験を買ってくれ、無事に採用となりました。チャンスはいつやってくるかわからないものです。

がむしゃらに進んだ先に見えた目標

1プロの世界に飛び込んだ最初の3か月は、ついていくのが精一杯。同期は大学院を卒業して経験もあったので、歴然とした差を感じずにはいられませんでした。自分はこれでいいのかと悩み、コーディネーターに相談をしたのですが、「心配しているということは大丈夫だ」と言ってくれ、心が軽くなりました。がむしゃらに頑張りながら1年が過ぎた頃、チームのほうから「今後はどうするつもり?」と声を掛けてもらいました。まだこのチームで学びたいことがたくさんあったので「ぜひ、継続させてほしい」と伝えると、もう1年契約をしてもらえることに。通常は単年契約で終わってしまうことが多い状況の中で、とても有り難いと思いました。1年で終わるのともう1年できるのでは、やはり大きな違いがありますから。

2年目はよりいっそう責任を感じながら仕事をしました。お金をもらってインターンをしているからには、会社やチームのことを考えなくてはならない。1年目では見えなかったことが2年目では見えてくるようになりました。また、インターンではなくフルタイムで働きたいという目標もでき、もっと一人でチームをさばけるトレーナーになりたいと思うようになりました。2年間のインターンが終わった時点で、自分はもうここにはいてはいけない、次の道に進むべきだと考え、大学院への進学を決意しました。正直、学生に戻ることは少し違和感があったのですが、30歳になるまでに自分の立ち位置と進む道を確立したいと思っていました。

一人でチームをさばくトレーナーを目指して

5結果、大学院に進んだのは正解だったと思います。在籍中は、もっと野球のトレーナーとして腕を磨きたいと考え、野球のトレーナーをリクエストし続けました。そんな姿を見たフィリーズのコーディネーターが、硬式野球部へ推薦をしてくれ、ようやくトレーナーとして就任することができたのです。一人でチームをさばく環境も与えられ、自分がやりたかったこと、目指していたことは「まさにこれだ」と実感しました。しかし、一人でさばく以上は、インターンでは経験できないチームのコーチや相手チームとのコミュニケーションなど、当然わからないことが出てきます。時にはフィリーズ時代のことを思い出したり、電話をかけて相談したり、大学院のスーパーバイザーに訊いたりし、試行錯誤しながら自分のできる範囲を広げていきました。

1年経った頃には、コーチからも認めてもらえるようになり少し落ち着いていたところ、2年目はなんとコーチ陣が一掃され総変わりに。新しいコーチたちは、トレーナーがいる環境に慣れておらず、私がやることに対し「過保護にするな」などと言うようになりました。このままではお互いに解りあえないままだと思い、監督に相談に行って話し合いを重ねると「チームのために必要なスタッフ」であることを理解ししてもらえるようになりました。また一から関係を築き上げていくのは大変でしたが、理解し合おうと努力することで、よりよい関係性ができるのだと感じました。2年目が終わる頃には、マイナーリーグのチームに正式採用されてもやっていけると、自分なりの自信がついていました。

再び巡り合った運命

大学院卒業後、OPT*を開始しましたが、一旦日本に帰るべきかどうかも迷っていました。大学院には日本人の教授がいたので進路について相談してみると、リサーチアシスタントのお話をもらいました。最初はピンとこなかたのですが、何事も勉強になるかもしれないと考え、引き受けることにしました。給料が発生しないので少し苦しいなと思いながらアシスタントをしていたところ、突然、とある短大から電話がかかってきたのです。3か月のパートタイムで働けるトレーナーを探しているとのこと。就職活動をしながらパートで働けるのは、本当に有り難い話でした。しかし、就職活動は意外と難航し、なかなか面接までこぎつけることがはできません。それでもチャンスが巡って来るのをあきらめずにいようと思っていたところ、3チームに空きが出たのとの情報を得たのです。「この3チームのどこかで採用してもらえなかったら、別の道も考えなければ」と決意し、必死の覚悟でのぞもうと履歴書を送りました。

6_4気持ちを新たに、ちょうどその頃心配をしてくれていた大学院のコーチに挨拶に行きました。これまでのいきさつを話したところ、履歴書を送った3チームの1つMLBロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムのアシスタントGMと友達だと言うのです。その場ですぐさまメールを打ち「彼の能力は間違いないから」と推薦をしてくれました。エンゼルスのマイナーチームでは、外国人のスタッフは雇わない方針だったのですが、コーチがメールをしてくれたおかげで面接を受けさせてもらえることになりました。「他にも面接をしている人がいるから」と言われていましたが、面接を受けて数日後になんと採用が決まったのです。
※OPT:Optional Practical Training(オプショナル・プラクティカル・トレーニング)の略で、アメリカの大学、短大、専門学校を卒業後、留学生が申請出来る実務研修期間。民局からの許可により、最大12ヶ月間、アメリカ国内で合法的に働ける制度。

10年越しの夢の実現

エンゼルスは就労ビザを出さないという会社のルールまで変えて、採用をしてくれました。自分では突破できないことを、周りの人のおかげで突破することができたのです。チームからは「自分の信じたことを好きなようにやってくれ」と言ってもらっています。やりたかったことが実現できている環境は、夢の中にいるみたいです。ここまで来るには10年かかりましたが、1歩1歩進んで来たのがよかったのだと思っています。時には進路が決まっていないという危機感もありましたが、何事も不平を言わず一生懸命やることだけは忘れずに取り組んで来た姿を、周りの人は見ていてくれたのではないでしょうか。

大きな目標を達成するために大切なこと

4_2私は、能力が高かったわけでも優秀だったわけでもありません。しかし、目標にたどり着けたのは、与えられた環境で真摯に誠実に取り組み続けたから。一生懸命頑張っている姿が周りの人の目に入り、「助けてやりたい」という気持ちになったのだと思います。一人では達成できない大きなことをやり遂げるには、他の人の助けや後押しが必要です。そこで「助けたいな」と思ってもらえる人間にならなくてはいけないと、私は思っています。

もがき苦しんでいる姿を見た人は、成功しているとは思わないかもしれません。しかし、周りの人が何と言おうと自分が決めたことに挑戦し、悔しい思いや嬉しい思いをした時点で成功なのではないかと思います。成功とは、のぼりつめた先にあるものではなく、もっと近くにあるものだと考えれば、きっと辛くてもあきらめずに進むことができるはずです。私は、毎日素晴らしい環境で仕事をしていることを嬉しく感じていますが、まだ自分のスキルに満足しているわけではありません。野球選手と同じで自分の現状に感謝はしても満足せず、もっと上を目指したいと思います。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

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